WEB金蘭会

金蘭会セミナー


第107回
平成19年4月20日(金)
演題
大手前 昔話 パートU
講師
江田龍咲氏(昭和50年卒)
日本アイ・ビー・エム 勤務
 

江田龍咲(えだ りゅうさく)氏 プロフィール

昭和50年 大手前高校卒業、
昭和54年 大阪大学経済学部卒業
昭和54年 日本IBM入社。
主として営業部門に従事。
1988年1990年にはIBM中国で勤務。
当然ながら、コンピューター全般に詳しい。











OTEMAE GIRLS HIGHT SCHOOL

OTEMAE GIRLS HIGHT SCHOOLの名称がみえる











爆撃で破壊された金蘭会館

爆撃で破壊された金蘭会館











共学開始のころの先生方

共学開始のころの先生方











28年卒の修学旅行、3年生 水前寺公園

28年卒の修学旅行 水前寺公園











29年ころの大手前

29年ころの大手前(拡大します)











先回に引き続き、江田氏からは丁寧な作りのレジュメを配布していただき、氏制作のスライドを大手前の思い出アルバムとしてプロジェクターで映しながら、発表者の昔語りが進められました。先回は11年卒業から20年の卒業の方々のお話を伺うことができました。今回は25年卒業から30年卒業の先輩方のお話です。発表者の方々には、先回と同様に後日、良質紙に印刷したレジュメが氏から送られるそうです。発表いただいた諸先輩方のご尽力に感謝申し上げます。なお、今回は音声録音が20分しか取れず、それ以降の記録は手書きのメモのみを元にしています。ご了承くださいませ。

25年卒(1950年) ― 朝鮮戦争勃発
戦争、終戦、戦後の大手前

25年卒の女性のお話

25年卒のお話の前に24年卒の方のお話しを聞くことができたので、その報告を。
24年卒はユアサ電池に動員され、潜水艦を潰すための爆雷(中に鉛電池)を作っていたが、戦争が長引けば全員鉛中毒になってしまうところだった。自分たちの学年が一番苦労していたと思っていたが、先回のお話を聞くと、1年上、2年上の先輩方の苦労のほうが大きいと感じた、ということだった。

昭和16年に国民学校になったが、ご自身は16年から19年まで国民学校。19年に大手前高等女学校に入学。
120周年の記念誌の記述を基にすると、入学式には5年生までの上級生みんなで迎えてくださったが、19年7月;5年生動員。1年生は何とか授業があったが、その後、鍬を振るいテニスコート・運動場を開墾。続いてお堀端を開墾。20年3月1日;当分授業無しで作業。 3月13日;大阪大空襲。6月1日、7日、15日と大空襲、学校へ行こうにも空襲警報が鳴り断念。そんな戦々恐々とした状況。入学時の250人は疎開のため人数がどんどん減少。それも連絡のない場合がほとんどであった。
3月20日に豊中高等女学校に移転、疎開(学校が府庁の隣のため)。200人くらいだっただろうか、生徒たちで学校の重要書類を12・3Km歩いて豊中高女まで運ぶ。戦後共学になってから、疎開させた重要書類は先生の依頼で、男子2人女子3人で大八車を引き持ち帰った。この件については当事者の女性からお話を伺うことができた。(女性2人だけがご存命)

終戦の日は、豊中の高等女学校で玉音放送をザワザワと聞いた。地歴の亀田先生が「日本は負けたんだ」と泣いて教室に入って来られた。その亀田先生のお嬢さんの通称小亀ちゃんから、お父さんが人前で泣いたのを初めて見たと、当時の先生の様子を伺うことができた。
今回、セミナーでの発表にあたって事実を残したいとの思いから、手分けして同期生等から当時のお話を集めた。結果、終戦当日には学校は豊中に疎開しており、大手前高等女学校には先生も生徒も誰もいなかったという事実が明らかになった。15日は玉音放送の後、泣きながら瓦礫、死体の転がっている中、鉄橋を渡って豊中女学校からやっと家にたどり着き安堵した。当時は車、写真機、電話もない時代だった。本来なら夏休みであるが、当時は労働力として奉仕のために出校していた。<昭和20年8月14日の空襲で金蘭会館は破壊された。WEB金蘭会による

修学旅行は会費が500円で、苦しい時代だったので参加者は150人に満たないほどだった。体育館で座っての話し合いをしたのが終戦後初めての自治だった。戦後に復活したもの ・自治 ・修学旅行 ・制服がセーラー服に。
私たちの誇りは、初めて女子から東大へ行かれた方がいたことである。

25年卒 男性のお話

戦後の男女共学について話したい。
22年に新制中学ができ、23年に新制高校が始まった。新制6・3・3・4は22年から始まり、3,4年の間に次々と大学まで新制になっていった。高校は学校間での編入・交流などがあって実にややこしい時代であった。<参考ウィキペデアから:学制改革
大手前高校は正式には23年に男女共学が始まった。ご自身は旧制北野中学で4年生まで終え、5年になる時に新制大手前高校の2年に編入。旧制北野中の5年卒業生は、そのまま卒業してもよいし、新制大手前高校3年に編入してもよいということになった。この人たちが新制大手前高校の1回目の卒業生24年卒である。旧制北野中の3年生は新制大手前高校1年生となった(26年卒)わけだが、この学年の編入は強制転入だった。
旧制北野中の校区の線引きは大川の北側は北野高校へ、大川の南は大手前高校へということであったが、旧制大手前高等女学校から、北野高校への転入の線引きははっきりしていない。25年卒と24年卒、つまり、新制大手前高校の2年、3年は自由意志で転入できた。
25年卒の編入人数は大手前女学校からから北野高校へ4人、北野中学から大手前高校へ36人であるが、1年上の24年卒の編入人数ははっきり把握できていない。62年女学校が続いた後、男女共学となったのである。

昭和23年というのは、帝銀事件、昭和電工疑惑などの事件があった年で、当時学校の校舎の前の道路に市電が走っていた。現在にまで残っているのは、藤棚、府庁側の校舎で当時は高等科、そしてプールである。北野は50mのプールだったのでずいぶん小さいなと当時感じた。
なぜ、北野から大手前に編入したのか? 自由意志の転入が認められた自分たちがなぜ、大手前へ行こうという気持ちになったかと考えてみると ・先生方がかわられた。(三木先生、数学藤田先生、国語小林先生など)  ・友人と話し合って  ・お姉さんが大手前に行っていた。 ・校区の小学校などから大手前女学校へ。 ・小学校の同級生が行っていて違和感がなかったから。
一高・二高・三高を目指して北野中学で勉強していたので、大手前に来て勉強は少し遅れた。世界史が新しく入ってきたとはいえ、追加の1年の様で蛇足であった。それまでは、国史、東洋史、西洋史を習っていた。3学年一緒に受講の講座制もあった。
編入を選んだ他に考えられる理由
・ナンバーズスクールへの合格率が10/300人と北野の黄金期がすでに過ぎていた。 ・女性がいたので興味があったかと聞かれれば、好奇心が主体で編入に動いた人は少なかったのではないかと思う。

富士五湖へ修学旅行:3年生での旅行 24年8月 2名のお母さんが同行、校長先生の粋な計らいで、たまには男性だけでと、すき焼きパーティーがあった。
共学になって初めて体験したこと:文化祭とバザーでは仕入れから会計まで初めての経験だった。
東大入学の方は防衛庁次官。京大には複数入学、そのうち最初から最後までトップの方もおられ、また京大教授になられた方も。
☆ 共学になって男子が編入してきたときの乙女心は、どうだったのだろう?

25年卒 女性のお話

新制になっての編入時、旧制高校に失敗した人たちが来たと女子は思っていた。
男女一緒に国語・体育。男子だけの授業、女子だけの授業が多かったが、英語は男子ばかりのところに女子が7・8人入れられた。先生の質問も男子生徒の答えも理解できなかった。クラスを戻してほしいと言ったが、そのうち判るようになるからと中村先生がおっしゃった。
北野からは良い先生が来られた。絶対に一緒に勉強できなかったのは、数学。幾何はさっぱりわからない。男子は北野中学の2年で三角関数を習って大手前に来た。
学制改革の意義は、私にとって「男女共学で女子も男子と同じように勉強していいんだよ。」ということが謳われたのだと感じている。

26年卒(1951年) ― SF講和会議開始
戦後の大手前

26年卒 女性のお話

豊中高等女学校というのは現在の桜塚高校のこと。
☆質問に関して、乙女心が動いたかどうかは判らないが男女共学は複雑な気持ちだった。

26年卒 女性のお話

学校疎開のため豊中で終戦を迎えた。豊中から十三大橋をわたって歩き通学した。
終戦後、大手前高等女学校併設中学になり、その名前で卒業証書をもらう。ご自身は精勤賞をもらった。22年には1時期 OTEMAE GIRLS HIGHT SCHOOLの名称であったが、その後 大手前高等学校にかわった。

籠球部(バスケット部)に所属していて近畿大会、西日本大会などに出場。指導担当は綿谷先生。そのときのメンバー5人は今も健在で2月21日の綿谷先生のご命日にお宅へ伺ってお参りし奥様とお話できた。練習所は室内体育館(天井が低くて薄暗かった)で、男女共学になってからは男子と一緒に練習していた。体育館ができたのは卒業してからだった。

27年卒(1952年)― SF平和条約発効
大手前高等学校の時代

27年卒 男性のお話

ご自身は終戦の翌年昭和21年4月に 旧制北野中学に入学。 昭和23年4月 学制改革により男女共学が実施。大手前高女との交流が行われ、3年生になる時に大手前へ転入した。北野へ残るか、大手前へ転入するかは、住居が淀川のどちら側かで区分された。クラブ関係で若干の例外はあったようだ。当時正直なところ、なんで大手前に行かないといけないかという気持ちだった。 

学年はA〜Fの6クラスで、私はF組で男子20人女子31人だったから、学年全体では北野から大手前へ転入した人数は120人位、大手前に残っていた女子の数は180人位ではなかったかと思われる。
移られた主な先生方は小松(忠)、小林、工藤、藤田、松本、三木、木村、中村、太田の諸先生方で皆さん素晴らしい先生ばかりだった。北野で大手前との交流の検討に当たられた先生方が来られたと聞いている。
高校1年の時に優秀な方々が入学され、卒業時には男子157名女子215名だった。

学制改革により男女共学になったが、大阪府はナンバーズスクールでなかったので伝統ある校名がそのまま残り、大手前の名が120年以上も続いていることは、何にも増して良かったと思う。他府県では、こうは行かなかった所が多い。

28年卒 (1953年)― 第五福竜丸事件
大手前高等学校の時代2

28年卒 男性のお話

ご自身は国民学校に入学。新制中学は4月にはまだ公立の中学校ができていなかったので国民学校5年生くらいから受験勉強をして私立に併設の新制中学に入学。国民学校3年は男女組だった。100人のうち30人が男子。4年で疎開。中学、高校の男女共学も違和感はなかった。入試は府下一斉のアチーブメント・テスト(achievement test)で行われ、全ての大阪府立高校で同一の内容、英語は無し。詰め込みで勉強は苦しくあまり楽しい思い出はないが、友人は良い人に恵まれた。旧制の先輩たちは実に大人っぽかった。
ジェーン台風の日 京阪電車がストップし、歩いて登校したら遅刻、皆勤賞を逃し精勤賞になった。特例無しの厳しい先生であった。
1年生遠足:清滝  3年生で修学旅行:九州方面 修学旅行にお米を持って行った。
空襲で破壊された金蘭会館は25年には修復されたのではないかと思う。金蘭会の地下で1年のHR時にレコードコンサートを初めてした。アメリカ文化センターでレコードを借り出してグランドピアノの音楽を聞いた。寝屋川農園で星の観測。食堂のクーポンのうどん・クーポンのパンは普通のものより大きかった。

28年卒 女性のお話

ご自身は6・3・3の新制になって大手前高校を受験した最初の学年。制服を作ることになったが、業者は野村洋服店だった。男子は詰襟、女子はセーラーと(今と同じ)ブレザータイプのものとの選択制。ご自身は憧れだったセーラー服を注文。入学式の集合写真の制服は、セーラー有りブレザー有りで色々。修学旅行時もセーラーが人気。3年卒業時の写真は体も大きくなって買い替え時ということもあったのか、今のブレザータイプに替えた人が多かった。
1年の2学期が始まってすぐの時期にジェーン台風来襲。学校から家まで線路伝いに歩いて帰宅の思い出がある。
新制中学3年生にアチーブメントテストが行われ、その成績と内申書で振り分けて高校の入学を先生が決めた。

学生食堂のことが少し話題になったが、戦後の食糧難の時代の名残だろうか、お米を持参し食券に替えておき、1合券に2円を添えて窓口で渡すと洋皿一杯(1合分)の御飯を渡して頂ける取り決めがあった。コロッケ、きつねうどん、カレーなどに人気があり、時折府庁のお父さんがこっそり先生の振りをして食べに来ていた。クーポンのうどんは、2玉入りだった。

30年卒(1955年)
大手前高等学校の時代3

30年卒 男性のお話

ご自身は27年に大手前に入学。在学中とその後について少し調べたことも話したい。
新制中学の人が高校の1〜3年になった27年に、大手前は週5日制から6日制になった。
清水谷は5日制。2年の時には英・数を成績でランクA・Bに編成。修学旅行も3年の1学期だったのが2年の3月頃に変更。授業の邪魔にならぬように時期を変更したものと考えられる。
入学した頃、教育委員会に接収されていた別館が返還されて自治会、保健室、柔道室になった。3年生の時に道路が潰され運動場が拡張された。28年の大手前だよりには2月;目下、地ならしの途中。29年11月;運動場ができ、道路が撤去された、とある。

金蘭会館は入学時は潰れていたのが改修されていて(27年)、改修後の金蘭会館は、2階が図書室 3階閲覧室 1階は補習科だった。当時浪人生は予備校が無く宅浪が普通だったが、大手前は浪人生2クラス分を先生が授業をして面倒を見ていた。これを“大手前スーパー短期大学”と呼び、ぴりぴりした雰囲気だった。当時、年5回の模擬試験があり第4回の模擬試験から2年と浪人が混じって受けた。先輩の受験に対する姿を見ながらの勉強。これらの布石があって、受験トップクラスの高校が作られて行ったのではないだろうかと考えている。府下のトップ校のほとんどが旧制中学から新制高校に移行した元男子校であるのに、元女学校でありながら独り大手前だけがその仲間に入っている。

ご自身は卒業して44年に教師として大手前に戻り57年12月末まで在籍。
在学中は50音順の男女混合名簿だったが、昭和40年から女性が先の名簿になった。
受験、受験の毎日で、名簿順の席の前後の人以外ほとんど話さなかった。3年生では国語・社会は男女一緒のクラスだったが、学科によっては男女ばらばらで受講する等、学園生活がなごやかという感じではなかった。中学3年間を自由に過ごしていたので、上級生にお辞儀をする校風の大手前に来てみて窮屈だなとも感じた。教師として帰ってきた時、生徒がまとまりのある和やかな雰囲気になっていて、自分の頃と比べ羨ましかった。 アルバムは小判型の写真で個人が写っているタイプのものは昭和38年まで。(戦前の)印刷が高価だった時代のアルバムは、写真を貼って小判型の窓を上からかぶせるタイプ。全員がそのアルバムを持つ。書庫のアルバムは年を経て写真の糊が取れてしまったのもある。後の小判型の個人写真はその名残だと思う。

(リポート文責  昭和50年卒 谷村瑞栄 )


セミナー会場でのご様子。全画像、拡大して見ていただけます。

 

No.001

No.002

No.003

No.004

No.005

No.006

No.007

No.008

No.009

No.010

No.011

No.012

No.013

No.014

No.015

No.016

No.017

No.018

No.019

No.020

No.021

No.022

No.023

No.024

No.025

No.026

No.027

No.028

No.029

No.030

No.031

No.032

No.033

No.034

No.035

No.036

No.037

No.038

No.039

No.040

No.041

No.042

No.043

No.044

No.045

No.046

 


ページ作成 S53年卒岸政輝 & S50年卒谷村瑞栄&リポート34年卒町田&カメラ50年卒前渕