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金蘭会セミナー


第111回
平成19年9月21日(金)
演題
四国遍路とその後
講師
留井英明氏(昭和34年卒)
 
 

留井英明氏プロフィール

昭和38年大阪大学電気工学科卒業
昭和40年同大学院修士課程終了。
昭和40年4月三菱電機株式会社入社。
  電力変換機器、燃料電池などの開発設計を担当。
平成12年3月同社退職。引退生活に入る。


第111回セミナーの感想

平成11年卒 河相絵里

 8月を以って退職したため、初めて金蘭会セミナーに参加することが出来ました。高校を卒業して早9年、これまでなかなかお目にかかれなかった大手前の先輩方に1日にしてこんなに沢山出会え、貴重なお話をうかがうことが出来、また懐かしいこの場でひと時を過ごせたことをうれしく思います。これからも参加できるときはどんどん参加したいと思います。


第111回金蘭会セミナー 「四国お遍路とその後」を拝聴して
昭和28年卒業 松本祥子

 お遍路さんの姿で会場にお越しくださり講演してくださいましてありがとうございました。 今回映像も豊富でお話も具体的で面白く、大変楽しませていただきました。
 私は和泉市に在住ですので小栗街道の名前と写真が出たときは(あ、いつも通っている。)となんだか嬉しくなりました。昔はメインロードだったようですが車社会の今は狭く感じられるようです。
“屋根のある橋”があると聞いた時(あ、マデイソン郡の橋だ。)と一瞬クリントイーストウッドとメリル ストループの顔がちらつき橋の1シーンが頭にうかびました。(へー、日本にもあるのだなあ〜)と興味をおぼえ是非一度行ってみたいと思いました。
 歩くと直接自然に接して五感が敏感に反応して感情が豊富になり、又考える事が出来る時間が得られるのだという事はわかります。私も毎日犬と1時間ほど散歩するのですが(そんな短い時間ですら)家中や社中にいるときと違って物事を冷静に見つめ直し大きな気持ちで相手の立場を考えられるようになった経験があります。まして1,480kmもの道程を足に豆をつくりながら黙々と歩き続けられた後はその達成感が自己の強さと自信になり、身体の疲労を超えての爽快感があったとお察しもうしあげます。だからこそ熊野古道等次々に踏破なさっているのでしょう。すごい の一言です。時間が少なくて残念でしたが次の機会にまた是非お願いします。


























































































第111回金蘭会セミナー「四国お遍路とその後」 2007・9・21

1.四国お遍路
大勢の方にお話を聞いていただき有難うございます。
私の話のせいなのか、「もう一人の留井さん」のせいなのか、疑問に思うところですが、いつも「もう一人の留井」がお世話になり、ありがとうございます。
4年前に一度お話させていただいております。5年もたった話をするのは心苦しいですが、 遍路の話で、全区間一度に歩いたというのも、なかなかのものだと思うので、 もう一度お話させていただきます。

私が歩いたのはこの格好です。(遍路の格好で登場)
この杖は、途中で行き倒れたときの「墓標になります。」
この菅笠さえかぶっていたら、どういうところへ行っても脱がずに挨拶して良いというものだそうです。お参りしている間もこの帽子はかぶったまま。 この杖は2本目です。1番で杖を購入したら、皆同じなので、間違えないように名前を書くのだが17番で間違えられてしまった。自分のものを持っていかれてしまった。
同じ目にあった杖がお寺に置いてあるので、それを使おうとおもったが、その人の業を貰うことになるので、 ダメだそうで、新しいものを買わないといけない。初めのころは、元気だったので杖がなくても歩けると思ったが、23番の手前の宿に泊まったときに、八十八箇所以外のところも回っていたのでそこの女将さんから、 こんなところまで歩いている人が弘法大師さんと歩いていないとは許されないと言われ、23番のところで新しい杖を買いました。

二度と間違えられないように、真っ赤なビニールテープを巻いた。23番からあと、持つ場所が変わるほど、かなり杖が短くなった。ささくれ立つと使いにくいのでコンクリートの上でこするので、そのためもあって、短くなる。本質的には歩いてついている間に短くなった。1500キロ歩くとはそんな風なものだ。
それから、靴についてですが山歩き用のトレッキングシューズで歩きました。
徳島から歩き始め、高知へ着く手前で靴の裏が減り始め、全部歩けないと思い、下駄を探した。朴の下駄を探し、高知の手前の赤岡町で購入した。下駄を履いていたお陰でいろんな方に声を掛けていただいた。下駄で歩いている遍路も珍しい。

@ 遍路大使
今回遍路の話をしようと思ったのは、 平成16年4月に香川県のロータリークラブが遍路大使というのを始めた。お遍路交流サロンがあり、ここを通ってきた人に「遍路大使に任ずる」というのがあり、川崎市の人が第1号。遍路人口毎年10万と言われる中、歩き遍路は1000人から2000人といわれている。
朝日新聞のツアーで数日に分けて、歩くというツアーをなさっている。すると一度に120人という遍路大使が誕生する。遍路のPRをしてくださいというものなので 私もお話させていただくことにしました。

A お遍路さんに出かける
退職後、某短期大学の非常勤講師をしており週3時間教えていた。折角退職したのに休みがない。減らして貰おうとおもったら半年時間が出来た。歩くのは元々好きで、昔は連れ合いと一緒に東海自然歩道をあるいていたこともある。歩くのにやぶさかではないと、3つを候補に挙げた。四国と熊野古道と奥の細道。奥の細道は宿がよくわからない、四国はいちばん宿が多くあってよいかなと。そしてもうひとつ。「定年からは同行二人」という本がある。古本屋で見つけたもので、時事通信でだいぶ偉くなった方が書かれた。この中で読者がワープロうちで批判を書いている。この著者は夏に行っている。
「夏にお遍路に行くのは馬鹿だ」という書き込みがあった。
その上に、「この著者は高知の「そえみみず」という難所を歩いていない。と書いてあったので、よし行ってみるかと、色々行くことを調べていた。

本屋には売っていないが、歩き遍路のバイブルとして非常によい本を知った。 著者は元警察官で、四国遍路の道を整理した。1冊は注意書きが書かれている。
足のまめが出来るから足の手入れを十分しろ。というものである。もうひとつは、これが値打ちなのだが、歩くところを25000分の1の地図にあわせて全部書き込まれている。
この本には途中の道だけでなく、野宿できるところ(屋根壁トイレ有など)、食べもの屋、 旅館があるということが書かれていて非常に親切である。
手に入れたときには5年ほど経過していたので店がずいぶん潰れていた。5年経つと新しい道が出来ていたので間違ったところへ行くということもあったが、有難い地図だった。

それまで歩いた経験から舗装道路をずっと歩くと足に豆が出来る。南方から大山崎まで33キロ、自分にかつ勝ち歩きというイベントがある。だいたい枚方大橋のあたりで豆が出来リタイアする人が多い。私も同期の男性と女房と三人で参加し、私はゴールに着いたとき豆だらけだった。後の二人は元気だったが・・・。それに懲りて豆が出来ることを非常に気にしている。

B 遍路姿
お遍路も70%が舗装道路。靴を選ぶのに気をつけようと、大阪市内の熊野古道を歩いた。
そのスタートが八軒屋、昆布屋さんの前がスタートで、そこから歩き出し大阪市内を南下した。新しい靴で、初日は遠里小野まで行った。足に豆が出来15キロほどしか歩けなかった。4足ほど履き比べ,やっとよかったのが山に履いていくトレッキングシューズだった。

お遍路に行く時に一緒に住んでいる母が、小松島にいたのでお遍路のことよく知っていて、「徳島だけでも10日ぐらいかけて行っておいで」と言われた。知り合いの人がお遍路から帰ってきたら心筋梗塞で亡くなってしまったから、気をつけて行っておいで。といわれていった。
出発するときは、あかんかったら帰ってきたらいいわと言う気持ちで行きました。 ただうまくいけば45日間ぐらい帰ってこない。携帯電話を普段持たないので、女房と娘に懇々と言われ、プリペイド式の携帯電話を持って出かけた。これが非常に役立った。

その日どれだけ歩けるかわからない。お参りしてお勤めして納経をすると30分から1時間ぐらいかかる。1日10時間も歩けない。八十八か所の他に別格などにも立ち寄ったりしたので1480キロ。行きつ戻りつしたところは計算していないので、それ以上になると思う。
あかんかったら帰るといったのが結局52日間。52日間ずっと歩けたのではなく、弁慶の泣き所が痛く2日間宿から動けなかった。愛媛の国分寺から石鎚山登る手前でダメになった。6月に友人と九州の山に登る約束をしていたので、これなら間に合うとその直前無理をしていた。そのせいだと思うが2日間動けず休んでしまった。一番長く歩いたのは49.5キロと書いているが、それは足摺岬から月山神社のところで、途中宿が潰れていて次の宿まで歩くことになった。周り真っ暗で、宿の女将さんが表に出て待っていてくれた。そういうことが2度あった。

家を出るときはハイキングに行くような格好で、一番のところで遍路用品を購入した。笠の上にビニールをかぶせて、雨具を着て歩けと書いてあるが、4月の12日以降は暑くて、そうしていられなくて傘を差して、荷物に笠をかけて歩いた。
10日もすると足も太る。筋肉で太る。足は細くなる指は太くなった。
朝の間はいいが昼からは下駄を履く生活をしていた。

C 遍路記念として得た納経帳と御影
一番の奥の院の種蒔大師というところからスタートした。
鳴門を過ぎ、間もなくだと思い、バスでトイレに行っている間に鳴門インターのバス停を通り過ぎてしまった。徳島の駅まで連れて行かれてしまった。
それで当初から思っていた種蒔大師からスタートしたいと、電車で向かった。

そのとき初めて買ったのが朱印帳。
その種蒔き大使にあったのが大きな朱印帳で、車やバスの人は持って歩かないから良いのだろうが私はずっともって歩くので買わなかった。聞いたら普通の朱印帳でもよいということで買った。納経帖は一番の札所で小ぶりのがあったので追加購入した。四国霊場八十八カ所と書いてあるが、枚数は八十八カ所と別格の二十番、高野山奥の院とがこの一冊にちょうど収まるので、なかなか良かったと思っています。
納経はずっと書いてくれるのだが、バスで行かれた方は覚えておられるかと思いますが、 添乗員さんは走り回っておられる。夕方5時にはしまってしまうが、バスの場合は、決められた時間内に回らないといけないので、時には添乗員さんが印を押しているところもある。

歩き遍路に気を遣ってくれるお寺と気を遣ってくれないお坊さんが居た。ご住職が私に印を押しましょうと言ってくれたところへ、同じように「私も待っている」と言ってきた人に「あなたの分も押しましょう」と行ったら10数本差し出したということもあった。
丁寧に書いてもらって、読めるようにならないといけないが、今のところはなかなか読めない。
お寺を回り納経すると同時に、八十八ヶ所と別格と20ヶ所全部で、御影(みえ)というのを戴く。これもちゃんと配ってくれるところと、自分で取りなさいとおいてある所があり、一ヶ所取りに戻ったこともある。
別格の御影(みえ)は色つきである。丁度私が行った年の前年が1200年の記念の年で、別格のお寺では一字ずつ般若心経を記した蓮華を象ったしおりを作られていた。用意しただけ、なくなり次第終了とのことだったので今はあるかどうか判らない。これを貰うためにも20カ所全部まわらなければならないと思った。

お参りすると「納め札」を収め、お接待を受けるとお渡しし、お遍路同士は挨拶代わり。
錦のものや金のものもあり、錦のものは100回以上回った人のものである。こういう方のものを貰うと自分に功徳があるといわれている。納め札のなかにあったらさりげなく貰ってきなさいといわれていて、探してはいけない。もし見つかれば貰いなさいということです。
偶然、錦が手に入りました。これはタクシーの運転手さんのものです。
はじめの頃は他のお遍路の人とどのように接していいか判らず、ある程度なれてから納め札を交換し貰ったので、14〜5人しかもらえなかった。しかしそのうちの数人とは今も交流があるので、非常に有り難いなあと思っております。

D 宿の話
泊まったのは宿坊とか民宿とかに泊まった。一度だけ無料でお寺が提供してくれるところに泊まった。宿坊に泊まるのを期待したのだが、団体以外は受け付けない。僻地にあるので少ない人数のために料理を作っておられないようで、団体の予約があり、余裕があれば泊めてくれる。私が泊まったのは2番、6番、足摺岬、室戸岬では宿坊に泊まることが出来た。
これらはいつでも泊まる人があるので開けている。下駄にも記名札をおいてくれて、杖の場所もきちんとしてくれてとても扱いが良かった。写真の杖は17番でお別れした杖です。

私は良く知らずにいったが、箸袋の裏に食前の祈りというのが書いてある。団体の方はみな大きな声でやっておられた。一粒の米にもいろんな人の苦労が入っているので感謝して食べなさい、ということなどでした。

E 道路標識
歩いている間、頼りになるのは遍路道という表示である。遍路道の表示は本の著者が書いてくれているのだが「四国の道」というのが大部分をお遍路と同じ道なのだが途中所々違うところもあり、これのお陰で随分間違わされました。信じて行くとお遍路と関係ないところに行く。一番頼りになるのが向こうの人が作った標識。道を聞こうにも車に乗っている人以外出会わない。
昔からある遍路の標識の紹介。
1番から順番に回るようにしか標識がついていない。弘法大師も1番から順に同じように進んでいるので出会わない。弘法大師と会いたかったら反対向きに回れといわれる。そうすればどこかで一回は出会うことが出来る。「逆打ち」と言われる。順打ちの向きに歩いている限りは弘法大師に出会えないといわれるが、逆向きのガイドがないので難しい。慣れた人でないと歩けない。

F 出会ったお遍路さんたち
30前のお嬢さん。お年を召した方、20歳のお嬢さん。
ご夫婦で歩かれている方も多かった。ある奥さんは幸せだそうで、明日どこへ行くかどこへ泊まるかは主人任せで、上げ膳据え膳でただ歩いているだけでいい。帰ったら恐ろしいとおっしゃっていた。
一番最初にお会いしたお嬢さんは野宿して歩いていた。可愛い子があんなことしてあるくなあと思っていた。
外人さんもおられた。奥さんが日系三世で見た限り日本人なので話しかけたらまったく日本語がわからず、見た目は話せなさそうご主人が日本語ぺらぺらだった。
温泉がお好きな方。托鉢をしながら回っておられる方もおられた。
山登りをしておられる方に出会った。歩いてお遍路を周っているなんて信じられないとおっしゃっていた。富士山へ是非登れと言われた。つまらないかもしれないが日本一だから是非登れと。まだ約束は果たしていないが。9月のはじめが良いと言われた。

G 遍路道
道ですが、吉野川にかかる、潜水橋。川の中ノ島、田んぼのあぜ道。こんなところにも石の標識があり、昔はこんなところをお遍路していたのかなと思った。遍路道といっても、その道しかない訳ではなく、お寺とお寺を行けばよいのでどんな道を通っても良い。だけど近い道が遍路道となっている。私はよく変なところを尋ねて行くので、「お遍路さん〜そっちいったら道が違うよ」とよく言われました。みなさん親切でした。

徳島から室戸岬に行くところの一番お寺のない長いところですが途中、大きな岩に注連縄がかかっているのを見ながら進んだ。室戸岬から降りてお寺に泊まって出発するのだが、道がくねくねしているところを行かなくてはならない。それはお寺が道を自分で作っているので、道路の使用料を納経のところで徴収しているところもある。車か徒歩か聞かれる。
私もはじめの頃は聞かれたが終わりの方は汚くなってきたので歩き遍路と判り聞かれなくなった。
自動車の道はきれいに整備されているが、歩き遍路の道は草ぼうぼう。しかし手前にきちんと歩き遍路と記してある。
歩いていると坂本竜馬が通った旧土佐街道が残っていた。

H お接待
お遍路にはお接待がつき物。お接待というのは初め随分抵抗があったが、後々になると貰うことにした。千円札を3度貰った。150円を貰ったのは数知れず。お茶でも飲んでと150円下さる。150円というのが多くあった。こんな田舎でも500mlのお茶は150円。どこへ行っても150円だった。

お接待の場所もあった。田んぼの真ん中におばさんがいて、おにぎりやお菓子をいっぱい置いてくれている。朝に立ち寄ったら昼ごはんになるから持って行きと言われた。しばらくおしゃべりもするので時間がかかるが・・・。脇建設という建設会社が会社の前でお接待所を作っておられて、はっさくがつんであり、休んでいると事務員さんが麦茶を運んできてくれる。無料の宿泊所で向かいがうどん屋さん。1000人の遍路さんを泊めたい。6人ぐらいしか泊まれないが、泊まるとうどんをお接待してくれる。宿泊費食事つきでタダだった。
こういうお接待所がどんどんと作られている。リターンしている人が自分も何か出来ないかということで、作るのも奉仕、材料も奉仕で、随分増えているらしい。

I 登った山、花、そのほか
途中、お遍路の別格は山の上にある。700〜800m。途中峠などもそれぐらいあった。バスの人はみなバスで行けない。駐車場から本堂までの間でも石段登るとしんどいようで、下をすっと歩いて行く私を「ごくろうさん」とばかりに上から覗いておられる。

ユキモチソウという四国にしかない花。白と青とが一緒になった花「ニオイバンマツリ」を以前ここで紹介したら、ご自宅に植えておれる方があり、挿し木を分けていただき5本根付いた。

道を歩いていて中央構造線という標識が出てきた。諏訪湖から九州まで水平につながっている断層。道の真ん中に突然ある。次の年に新聞に取り上げられていた。
糸魚川から南に下りているものではない。地震の碑があり安政の大地震のときに海が20mほど引き、うなぎを取って喜んだ。 あくる日に津波がきて大変なことがあった。 高知の土佐市のあたりで、こんなところに津波が来たのかと思うほど、ずっと平地で、そこから海は何キロも先にあるところだった。南海地震のときにはその教訓をいかして亡くなった人は一人だったと書いてあった。

坂本竜馬とジョン万次郎と中岡慎太郎の碑がありました。これらを見てきました。これは面白かったのだか吉村昭の「漂流」という小説にあった野村長平という人で、無人島に12年間いて流木で自分で船を造って戻ってきたという小説の題になった男の昭和15年の碑があった。ほとんど横側は崩れて読めなかった。

土佐清水というところは、京都の公家、一条教房が応仁の乱を避けてここへ来たらしいが、京都を偲んで大文字の送り火をしていた。今も行われている。
土佐をあるいていたら、「樅ノ木は残った」の伊達兵庫の墓がありました。事件の後、土佐に預けられたらしい。最後土佐で亡くなり立派な墓を作ってもらった。 こんなところに奥州の伊達藩の伊達兵庫の墓があるとは思わなかった。土地の人は知っているが普通のガイドブックでは見ない。

卯之町の松屋旅館の玄関に昔泊まった著名な人の名前が書いてあった。ここは昔から家伝のお漬物があってご馳走してくれる。
シーボルトのお嬢さんが勉強した先生の家もある。なかなか立派な建物です。
岩をくりぬいた水路「仰西渠」、手作りの水路で、長さが57m。今も使われている。
高いところで高度700m、久万町で使われていた。

弘法大師が作られた灌漑用の大きな池「満濃池」。山の上に作ってあり、途中に屋根つきの橋がつくってあり、マジソン郡の橋のような橋であった。

私も新エネルギーの仕事をしていたが、太陽光発電が縁日で売られていた。
高松とか四国はどこへ行っても日照時間が充分で隣近所邪魔になるところはないから、どこの屋根にもお日様がいっぱい当たり、車1台分で買えるということで結構話を聞いてもらえるらしい。縁日に売っていると思わないからビックリした。

「不老松」枯れない松となっていたが、枯れていて、寄付を募っていた。
昔の国分寺を再現しようとして造っていた。まだどうなっているかわからない。


2.熊野古道
先ほどお話したように、はじめに歩くのを始めた。天満のところから始めて紀伊宮原まではお遍路に出る前に歩きました。ここまでは家から出発しては帰り、ただし連続しては行っておりません。初日は足がマメだらけになり、電車の乗り場へ着くまでにマメだらけ。

その後は紀伊田辺まで歩いた。これも日帰り。紀伊田辺から本宮までの間は3泊4日、本宮から速玉大社までの間は2泊3日で参りました。これは世界遺産に登録する前だったので友人たちも喜んで付き合ってくれて、相手は違うが4回ほど歩いています。
地図中、緑色の道の小辺路は歩きたいと思っている。

東高野街道というのがあり、岩清水八幡宮の東側をまっすぐ南に下りて行く。四条畷、河内長野を通って高野山へ行くという道がある。まだ瓢箪山で止まっている。この道は見るものが多くて進まない。途中に史跡がいっぱいあり、楽しみで歩いています。
中辺路を歩いているが全部で15日掛かりました。318kmで、記録によると藤原定家の御幸記に後鳥羽上皇の熊野御幸に付き合って歩いたとある。歩いたといっても輿に乗って仕丁が運んでいるのだと思うが、それで14日で行っている。帰りは7日間で帰ってきている。定家なんかは途中で歌会をしたりしているにも関わらず14日で行っている。

(画像)
これは八軒家のところです。大阪市内では歩道に書いてあったり、柱に立っていたりする。天王寺さんの中に熊野権化を拝むところがある。遥拝所です。
大阪でも「歴史の散歩道」というのがある。堺市に入っても熊野古道の標識がある。
「堺市」にはこんな標識があって、立派な碑も立ってる。「王子」というのは各留まるところのことです。
こういうのを見ると昔の街道らしいなと思わせられる。左右が立派な家です。 途中、小栗判官・照手姫の小栗街道の名前の付いている、高野街道が残っている。

これが最新の高野街道です。(画像)
海南の潮見峠で初めて海が見える。熊野古道は内陸を歩いている。
中辺路で書いてあったのだが、「ここから4時間は人家がない、心して歩きなさい」というのが2箇所あった。
説明版の統一が取れてないのでいろいろ有る。世界遺産があったところは統一されつつある。
行き倒れの人の墓と書いておいてあります。四国お遍路のときにもあった。

紀伊田辺から入り、しばらく歩いていたら、立派なお寺があり入った。その道の途中に安珍・清姫がまつられていた。中辺路の人気の所で、ここからはあと2泊3日でいけるぐらい。
よく出てくる牛馬童子で牛と馬の両方に童子が乗っている。写真を見たらどれだけ立派かと思っていたが、小さく、ビックリした。しかしなかなか可愛かった。写真を撮るのが難しく、正面から陽が当たるには、朝に行かないと難しいが、私は夕方だったので背中のほうから陽が当たっている。

伏拝王子は、和泉式部がここから本宮の森を眺めて喜び感動したといわれている。
熊野本宮は昔、川の真ん中にあっていつも熊野川の水に流されたので移された。
NHKのドラマ「ほんまもん」の家もあります。聞くとNHKが自分の都合のいいように工房も作り変えたという話を、いつもおじさんが来てひとしきり話してくれます。
大門坂をのぼる途中の途切れたところから那智の滝が見える。

(リポート文責  昭和62年卒業 福味真樹紅 )  

      



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