WEB金蘭会
金蘭会セミナー


第144回
平成23年1月21日(金)
演題
「淀川は大丈夫か! 治水翁・大橋房太郎の奮闘」
講師
小川 清氏(昭和51年卒)
郷土史家 平岡珈琲三代目店主
 


小川 清氏 プロフィール

平岡珈琲店 三代目店主
昭和32年5月4日生まれ
愛珠幼稚園
愛日小学校
船場中学校
大手前高校(昭和51年卒)
関西学院大学文学部フランス文学科卒
広告会社勤務の後、家業を継ぐ。

淀川の治水に生涯を捧げた大橋房太郎の業績を再評価するため「大橋房太郎を語る集い」を
有志と共に設立し、講演会等の活動を行っている。
平成22年8月に活動の集大成として「淀川の治水翁 大橋房太郎伝」を東方出版から
刊行した。

居合道・無雙直傳英信流(むそうじきでんえいしんりゅう)を学び、七段錬士。
一般社団法人錬信会の副会長として、古武道の指導と普及にあたる。
















セミナー後の懇親会での お弁当と
季節の本格和菓子です。

第144回金蘭会セミナー 感想文




(感想文  昭和20年卒  辻中正子)

 

 郷土歴史研究家の小川清氏(平岡珈琲店三代目当主、昭和51年度卒)により、淀川改修
竣工百周年目の昨年9月1日『淀川の治水翁・大橋房太郎伝』が東方出版より刊行され、
人々の生命を守るため、治水に人生を賭けた私達の郷土大阪の大恩人房太郎の業積を
再評価するために「大橋房太郎を語る集い」を有志と共に設立し、母校にもこの男の熱い
生きざまを学ぼうと、その長年の資料の数々を携えて講演して頂きました。

「温故知新」と、いう語句が仕事なりつつあるかの如き昨今、大切な事は語り伝えてゆかな
ければならぬ私達の使命と思います。

明治18年の淀川大水害で大阪が壊滅的な被害を受けた当時の画像を目の当たりにし、
同時に大阪市内が一夜にして焼け野原と化した大空襲時の惨状が私の胸にだぶりました。

房太郎は当時法律家を目指し書生として東京に居ましたが大阪の惨状を見かねて帰り、
淀川の治水こそがわが使命と心に決め、その水害から二十四年後、新淀川と呼ばれる
巨大な放水路が完成し、毛馬には水門が設けられ私達が目にする現状の姿になりました。

この陰に彼の誠心誠意東奔西走の最中に長男鉄太郎を三才で天に送り悲嘆の底から妻と
泣きこの励ましの声に支えられ、改修工事費は国費でと陳情を重ね続け遂に偉業が完成
しました。脱帽です。

大淀や毛馬の水門遠霞  まさ



(感想文  昭和38年卒  矢田貴美子)

 

 「治水王・大橋房太郎」と題しての小川清氏のお話はとてもおもしろくて、最初からぐんぐん
ひきつけられました。大川なんて地元だし、なんとなく知ってるつもりになってましたが、実は
知らないことだらけ。

  明治は新しいと思っていたのに、洪水で流された橋も実は少し前までは、 江戸時代の
人々が行きかっていたんだという当たり前の事実に、点でとらえていた歴史が 一つの流れ
となって、身近なものに感じられました。   

 今、私達が当たり前に暮らしているこの生活も、淀川の治水に心血を注いでくれた多くの
人達の苦労の結果なのだと、今の時代に生かされていることが、本当に有難く思えました。

  でも、治水もこれで完全ということはない。気候が昔とは随分変わってきている現代は、
今までとは違って予測のつかない事が起こるかも知れない。

 そのことも見据えた新たな対策も考えていかなければ、とのお話に私達もこの事にもっと
関心を持たなければと思いました。

   

セミナーのレジュメです。




明治わざと切れ

安治川橋

明治中津川

明治天満橋

明治天満橋京橋

明治堂島米市場

明治網島

明治淀屋橋

淀川資料館

閘門工事

大正牧野村

堤防の上

梅田停車場地理写真帖

鳩山一郎

鳩山和夫博士

板垣退助

副島種臣

房太郎と長男鉄太郎

大正牧野村

大正高槻町横町

大正高槻町本町筋

大正三国

大正十三駅

大正十三三国

大正新庄村

大正神崎川

大正堤防上の避難民

大正渡し舟

大正福村

渋川忠二郎

竣工式

松方正義

新淀川

水防碑

水量

西村捨三

疎水工事京都府立総合資料館

大阪府庁

大正決壊箇所

沖野忠雄

デ・レーケ

井上馨

関西法律学校碑

紀功碑の前紀功碑の前

後藤新平

工事中

市民葬

治水翁額

自宅の庭で


ページデザインS53年卒岸政輝 & ページ作成S50年卒谷村瑞栄