WEB金蘭会

金蘭会セミナー


第70回
平成15年7月18日(金)
演題
「おくのほそ道」ここかしこ    
講師
杉野 としゑ氏(昭和17年卒)
恩師、国語担当

杉野氏の若々しさと美しさに、驚くばかり。わざわざ東京から恩師の話を聞きに駆けつけた会員もいた。
「おくのほそ道」のブームが長く続くのは、そこに芭蕉の哲学があるからだという。
1644年(寛永21)伊賀上野の郷士の次男に生まれた芭蕉は19歳の時、出仕した上司の導きで俳諧に出会う。
31歳のころ江戸に出て、俳諧である程度の名声をうる。しかし、生活が俗化していくことに耐えられず、37歳の頃深川の草庵に移る。
41歳から2〜3年ごとに紀行文を出すが、かねてからあこがれていた、「白川の関」や「松島の月」を訪ねんと奥州への旅を思いつく。
元禄2年46歳で3月から9月まで6ヶ月間かけて「おくのほそ道」の旅に出る。
あまりにも有名な序文「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。」
ここに一つ芭蕉の哲学がある。
そして、「壺碑(つぼのいしぶみ)」と「平泉」の章ではもう一つの哲学となる「不易流行(ふえきりゅうこう)」を目の当たりにして、感涙にむせぶ。
つまり、不易流行とは、「古いものを探ってみて、そこから脱皮する」ということである。
深川から始まった旅を大垣で終えてから、5年の月日を費やして、推敲に推敲を重ね51歳の時に「おくのほそ道」を完成させる(4月)。そして、なんとその年の10月には大阪で没しているのである。
まさに、「おくのほそ道」は芭蕉が命をかけて探りに探った蕉風俳諧なのである。
だからこそ、「出立」の章の春の別れを表す、「行春や鳥啼魚の目は泪」と、最終章である「大垣」での秋の別れを表す、「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」というような見事な対比をなす俳句がうたわれているのであろう。

7月は一年間の金蘭会セミナーサイクルの最終月である。
一年間10回分のセミナーに皆勤した会員たちの代表者に升谷会長から皆勤賞が授与された。
皆勤するということは、予想以上にたいへんなことなのである。

賞状と、軽くて役に立つバインダーが贈られた。
どちらにも大手前の校章がついている。なお、いつもお弁当と一緒に配られる和菓子は、やはり校章入りの紅白饅頭であった。
そのあと、セミナーの世話役である金蘭会の運営委員のみなさんに感謝の拍手がおくられた。

ページ作成 S53年卒岸政輝 & S45年卒辻岡由起