WEB金蘭会

金蘭会セミナー


第73回
平成15年11月21日(金)
演題
大阪寿司と船場の移り変わり
講師
橋本 英男氏 (昭和36年卒)
吉野寿司代表取締

吉野すしの創業は約160年前の天保12年(1841年) にさかのぼる。その後三代目が「箱寿司」を考案した。
小鯛、海老、焼き穴子、椎茸、きくらげ白身魚のすり身入り厚焼き、 海苔を二寸六分の木型の中に色鮮やかに並べて型押しする。この箱寿司を「二寸六分の懐石」と称して伝統の味を 守り続けている。
『船場の移り変わり』の話に入る前に東京の寿司業者に純大阪寿司の箱寿司とはどのようなものかを見せるために作ったというビデオを見せてくれた。残念ながら鮮明な画像は撮れなかった。少しでも、何が映っているかが分かるものだけ紹介する。
たっぷりの白身魚のすり身を使った厚焼き玉子。30分かけて焼き上げた後5kgのおもりを乗せる。それでも十分な厚みとやわらかさを失わない。 木枠に詰めてゆく。「海老、鯛、きくらげ」「厚焼き、海老」「穴子」の三種類。硬質米である江州米を使い、味はしっかりつける。均等に回しながら力を加える。芸術品を見る想い。 箱寿司を切り分ける包丁の扱い方。刃の形が丸く湾曲していて、振り子のように動かしているところ。「六つに切るのではなく六等分に切る」のだそうである。 橋本氏はすらりとした長身。もの静かな話し振りの中に、世の中の移り変わりを見つめながらも、変わるべきではない伝統を守り続ける情熱が感じられた。
この日のお弁当は吉野寿司だった。「すし」の字がよく見えないのが残念。「養」の上の部分と下に魚、と言いたいところだが、少し違う。 おお、もう一つ包装が・・
ご好意で安くして下さり、1200円に。しかし、金蘭会での参加費は1000円。この日の参加者は随分得した。
もう少しで、お寿司にご対面。
高まる期待。
ビデオを見たので、作り手のことを考えながら味わえる。
箱寿司プラス助六。
これは、見かけよりもはるかに食べ応えがあった。とろけるような穴子に驚いた。

『船場の移り変わり』というのは火災の歴史のようだ。
1500年代蓮如が石山本願寺を建て、6000軒もあった寺内町が織田信長の一向一揆退治のため焼け野原に。
その後豊臣秀吉が大阪城を築くも、大阪冬の陣、夏の陣でまた焼土と化す。
徳川の時代の大阪城主松平忠明が町を碁盤の目に整えた。その時に掘られた土佐堀、長堀、東横堀、西横堀の内側を船場と呼んだ。江戸時代は東西が正道で広く、通りといわれ、南北は横丁で狭く筋といわれた。明治になって、大阪駅が梅田に出来ると、堺筋や御堂筋が拡張され、筋が表で通りが横丁に逆転した。
大阪が成熟を迎えるのは元禄時代(1688年〜1704年)。全国の富の7割は大阪にありそのまた7割が船中にあった。あまりの贅沢さに財産没収、所払いをされた淀屋の話は有名。その時に大阪町人は「拡大よりも安定」を学んだという。
その後、明治維新にいたるまで、数百町、数千軒を焼いた火災は24を数えることができる。享保9年の「妙智焼け」、「大塩の乱の焼け」の時も船場は割合火災を受けなかった。しかし、昭和20年3月13,14日の大空襲では壊滅的大打撃をうけた。
そんな中、「江戸、明治、大正、昭和と焼け残って商売をさせてもらっています」と六代目の橋本氏は語る。
大正の初めまでは船場の商人は住居と店がいっしょであった。不況に強い大阪商法、始末(質素経営)才覚(創意工夫)算用(経済的合理性)は郊外電車が通り店と住居の分離が始まるまでは続いた。船場が商いのみの地になったとき、衰退が始まった。
昭和期に入り、政治の中心と大企業の本社機能が東京にうつり、繊維の町大阪の元気がない。デフレで土地の値がさがっている。
バブルの時1坪9000万円の土地が今は300万。
『船場の移り変わり物語』は元気のない所で終ってしまったが、あまたの火災を潜り抜けてきた「吉野寿司」は今もこれからも、揺るぐことなく独自の道を進んで行くことだろう。
教えて下さった【豆知識】
・助六の所以:伊達男「助六」と遊女「揚巻」の事を描いた歌舞伎から。遊女の名「アゲ マキ」から、巻き寿司といなり寿司のセットが助六と呼ばれるようになった。
・大阪の食い倒れの語源:秀吉は町づくりのために運河を作った。当然必要になる橋の費用は商人たちに寄付させた。商人たちは橋が一つできるたびに倒産し、しまいには橋の杭1本打つたびに倒れたから、「杭倒れ」というのだそうだ。大阪の橋は8割が町人橋であった。

ページ作成 S53年卒岸政輝 & S45年卒辻岡由起