略歴: 昭和10年3月 広島市内にて出生 昭和16年4月 広島市立段原小学校入学 昭和20年8月 広島市内において爆心地より1.5kmで原爆を被爆す 昭和22年4月 広島大学付属中学校(三原市)入学 昭和24年4月 大阪市立城陽中学校(大阪市)入学 昭和25年4月 大阪府立大手前高等学校入学 昭和28年4月 関西大学 商学部入学 昭和32年2月 同大学卒業 昭和32年4月 塗料メーカー(大阪)に入社し技術部、管理部を経て 常務取締役となる 平成9年3月 同社を退職 以後、絵画活動に専念する 平成9年5月 上野ノ森美術館(東京)に水彩画を出展し入賞す 国内(主に京都、大阪、沖縄など)及び米国(サンフランシスコ、日本国総領事館)等、精力的に個展並びにグループ展を展開し現在にいたる。 平成18年7月 大阪府美術家協会会員となる
セミナー後の懇親会での お弁当です。
第186回金蘭会セミナー 感想文
思い出すのが辛い。またいわれなき差別を受ける等の理由で、広島原爆 被爆体験談は語れないと言っていた有田君が、戦後70年を経て話すことは 被爆者の責務ではないか。その惨状を皆さんに知っていただき、不戦の誓いを 持ってほしい。とこのたび金蘭会セミナーで重い口を開き語ってくれました。 本当に辛い気持だっただろうと推察し感謝の気持ちで一杯です。今後共、 勇気を出して口伝されるよう願っております。 この感想文を書いている夜、奇しくもラジオで一晩中、広島原爆の被爆状況を 特集報道していました。
被爆者の体験談が語り継がれることの大切さ、重要性を再認識させられた 講演でした。 仕事上、生徒を引率して広島、長崎へは何回か訪れた経験がありますが 戦争がひきおこす悲惨な事柄には常につらい、悲しい思いが残りました。 戦争中、幼稚園に通っていた私は空襲が始まると焼夷弾の降る中を防空 ズキンを被り、走って家に帰り防空壕に避難しました。 昭和20年になると学校は閉鎖されたので疎開しました。約1年半の田舎での 疎開生活には何も楽しい思い出はありません。 戦後は被爆者として差別、偏見の中に生きてこられた方々には、これからは 幸あれと祈るばかりです。