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金蘭会セミナー


第74回
平成16年1月16日(金)
演題
阪神大震災から9年。そして今、どう構えれば
講師
小林 一則氏(昭和50年卒)
読売新聞大阪本社 総務局管理部 次長

1995年の阪神大震災の事を後世に残す意味でも、小林氏が提供してくれた資料を掲載しておきたい。
死者6433人。重軽傷4万人。全半壊25万棟、46万世帯、仮設住宅48,300戸、10万人が暮らした。 (この仮設住宅は5年というスピードで解消した)。避難所には30万人が身を寄せた。
復旧までに水道・ガスは3ヶ月、電気は1週間、電話は2週間、鉄道は5ヶ月かかった。被害総額10兆円。
1.消防
 280ヶ所で火の手が上がり(ほとんどが同時多発)、83ヘクタール焼失。
【ビルが倒れ、亀裂が生じ、現場に向かう困難さに加え、途中で「人が埋まっているから助けてくれ」 とすがりつく人がいたりしてなかなか現場に到達できなかった。やっと到達すると、下水管の破裂、消火栓の崩壊で水が出ないと言う状態に呆然とする消防士の姿があったという。消防車の到達を神様の降臨のように思った人たちの中には失望と苛立ちで消防士たちに食って掛かる者もいたという。また、消防車の周波数が一つであったことも混乱を招いた。】
2.自衛隊
 知事の要請により派遣とされていたが、その後、自主出動の体制に。
【震災が朝の5時46分に起こったのに、正式要請があったのは午前10時であった・・・】
3.コミュニティ
 建物の下敷きとなった1万8000人の人の8割の1万5000人が近所の人の手により救出された。
【略奪などという混乱がほとんどなかったのは(便乗値上げはあったようだが)諸外国から見れば驚嘆に値するものであったらしい】
4.住宅
 再建に公的支援。ただし阪神大震災には摘用せず。
【最高100万円が支払われるという生活再建支援法というのができたのは3年後。しかし、そのお金は住居の建設には使えない。しかも、阪神大震災にまでさかのぼっては摘用しない。行政の力で利子は払わなくてもいいことになったが、元金が減るわけではないダブルローンで今も苦しんでいる人は多い。】
5.義援金
 1793億円。遺族や全半壊世帯へ各10万円など。
【京都で役所に2000万円を義援金にと差し出した人もいたという。被災者の人数が多く、一人当たりへの支払額が多くはなかったのはいたしかたのないことである。】
6.ボランティア
 半年で127万人。ボランティア元年ともいわれ、97年の日本海重油流出事故でも活躍した。
【フランス、アメリカ、韓国、中国などからも手が差し伸べられた。】
7.医療
 救出後、クラッシュシンドローム(挫滅症候群)で死亡のケースも。
【クラッシュシンドロームというのは長時間下敷きになっていた場合、その部分が壊死して、救出時に血流が回復した場合、壊死した細胞や雑菌などが血流に乗って、心臓、肝臓、腎臓などの臓器を傷害することである。PTSD(心的外傷後ストレス障害)で今も悩む人は多い。】
8.区画整理・再開発
 防災公園、防災道路の整備。災害に強い街に。
【公園に当時「あればよかった」と思うものを入れたプレハブを建てる。例えばマンションのドアなどはとても頑丈で少しでも曲がると開かない。そういう時、バールがとても役立つ。また、消防団が見直されている。婦人消防団というのができているところもある。行政による防災ヘリなどによる救急搬送などの体制はまだ十分整っていないようだ。ソーラーパネルを使った発電、幅の広い道路、地下水槽、幅の広い階段など】

震度階級などは気象庁のサイトに「気象庁震度階級関連解説表」があるので、参考にするとよい。
マグニチュードは地震の大きさを示す国際単位であり、震度は表面の揺れを示すものである。阪神大震災前は気象庁の職員の体感によって震度を決めていたらしい。マグニチュードは1増えると32倍の破壊力になる。阪神大震災はM7.3だが、来る震災はM8とも8.5ともいわれる。
南海、東南海地震といわれるが、東海とは静岡市〜浜名湖、東南海とは浜名湖〜潮岬、南海とは潮岬〜室戸岬〜足摺岬をさす。
阪神大震災は活断層型(内陸直下型)、南海、東南海地震は海溝型(プレート型)。

さて、次の震災にどう立ち向かうのか、ということである。
歴史を見ると、東南海地震は100年〜150年のスパンで発生している。
1605年の慶長地震〜1707年の宝永地震:その間102年、
〜1854年の安政東海地震(M8.4)安政南海地震(M8,4):147年
〜1944年東南海地震(M7.9)1946年南海道地震(M8.0):90年
ということは2040年ごろに発生すると予想される。30年以内に40〜50%、50年以内に80〜90%の可能性が在る。
それ以後1948年福井地震、1064年新潟地震、1083年北海道南西沖地震、そして、去年2003年には東北地震、宮城県北部地震、北海道十勝沖地震などは記憶にあたらしい。
地震に伴う津波も恐ろしいものだが、何回も来るということを知っておかないといけない。
「繰り返される地震が、ここでパタッとやむということはありえない。防災と言う事は自然を相手には不可能。減災のための備えをすることが大切。」
二段の箪笥の上の部分がスライドしてきて、その下敷きになった人も多かったそうである。家具の固定、ガラスの破片を踏まないように、スリッパの設備、など。
減災準備を常にしておく事、忘れ去らないことであろう。と小林氏は語る。
「何か現場でのエピソードのようなものはないですか」の質問に対して、小林氏はしばらく考えるようにして、「迫り来る火の手に対して、下敷きになって、助けを求める人を助けられなかった事があります。何人かで助け出そうとするができない。とうとう下敷きになっている人が、もう、良いから逃げてくれ、と言い、その人の身内の人を引き離すようにして、火の手から逃げた、ということがあります。そのようなことはとても記事にはできなかったですね・・・」と重々しく答えた。
当時は消防士も警察官も医療関係者もそして新聞記者も被災者だったのだ。
この日の小林氏の語り口があえて淡々としていた事に、ここで初めて気付き胸打たれたのは私ひとりではなかったはずである。


ページ作成 S53年卒岸政輝 & S45年卒辻岡由起