|
演題
|
わが国南極観測の50年 |
講師 |
渡邉 興亞(わたなべ おきつぐ)氏 |
前国立極地研究所長、総合研究大学院大学監事、11次、15次越冬隊員、29次、35次観測隊長、理学博士、国立極地研究所、総研大学名誉教授 |
渡邉氏が南極に興味を示したのは、砕氷観測船「宗谷」に乗った観測隊が東南極大陸、プリンスハラルド海岸のリュツォ・ホルム湾奥のオングル島に上陸、1957年1月22日に上陸式を行い、昭和基地を建設した事が新聞に載ったことがきっかけである。 当時、渡邉氏は高校2年、その頃の青年達にとってその記事は血湧き肉踊る出来事であったらしい。来年はそのときから50年目にあたる。 国際学術連合は第2回極年(1932-33)から25年目の1957-8年に国際地球観測年(IGY)を行う事を提案した。国際共同観測は前地球規模で行なわれるが、特に南極地域を中心にしようという計画である。 講演のあと、「お仕事される上での一番の喜びは何ですか?」と聞かれて、自らを「あえて言うなら雪氷博士」と呼ぶ渡邉氏は「自分が歩いたところが大地になって行くところです。」と、宗谷の記事に目を輝かせた渡邉青年を髣髴させるような笑顔を浮かべてはにかむように答えられた。 |
ジェームズ・クックは人類で始めて南極圏を航海した。1774年には南緯71度まで行ったが、南極発見には至らなかった。 | 1820年に南極が発見されている。3人ほど名前は挙がっているが誰が発見したのかは確かではない。 | 大気に対して、赤道側が「熱源域」であるのに対し、南北両極域側は「冷源域」である。 熱源から冷源への熱輸送が生じ、その結果として大気の大循環が起こる。南(北)極域は地球気候システムの駆動域の一つでもある。 |
1910年にアムンゼンが南極点に達する。 |
1898-1900アデア岬で人類最初の越冬。 | 1912年白瀬南極探検隊が日本人で初めて南極大陸を探検した。日本の南極観測のきっかけになった。 | 1946年、アメリカのリチャード・バードによる「ハイジャンプ作戦」。第2次世界大戦に開発された機器の試験、人員の訓練、航空機による大陸沿岸の60%の写真撮影。 | 黒い線が日本からの航路。 |
砕氷観測船「宗谷」。 1956-62年まで活躍。やがて輸送力に限界があることがわかり、1963-65年にかけて建造された「ふじ」が取って代わる事になる。 |
南極には定着氷と浮氷とがある。氷の厚さが1.5mぐらいなら割れるが4mにもなると割れないどころかとじこめられてしまう。 | リュツォ・ホルム湾の定着氷。 IGYに行なわれた南極観測は地球物理観測が中心で、気象、地磁気、極光・夜光、電離層、宇宙線、潮汐、地震などが観測された。 |
昭和基地、上陸式か。 左記の観測項目の多くはIGY観測が終わった後も定常観測として引き継がれ現在に至っている。 |
昭和基地。 地球物理分野以外にも、地理、地質、生物、雪氷、地球科学、大気物理学など地球科学分野の観測、調査が行なわれたが、当時の観測にはさまざまな制約があり、その多くは予察段階にとどまっていた。 |
このようなプレハブ式の建物を作る。 | 建設の様子か何かの保存場所か。 | 昭和基地内部。 南極観測砕氷船「ふじ」建造の間中断されていた観測が再開されると観測域拡大が計画された。昭和基地-南極点往復旅行が計画され、第9次隊が成功した。わが国の内陸観測の新たな展開が現実的課題となった。 |
当時は犬ぞりを使ったりしたが、現在は外からの動物の持ち込みは一切禁止である。 | 定着氷を砕氷航行する「しらせ」。「ふじ」は大型雪上車をつむ事が出来たが、しばしば立ち往生した。 | 氷に乗り上げて、舟の重さで氷を割っていく。4〜50キロ進むのにそれを5000回ぐらい繰り返す。 | 海岸の様子か。 |
「しらせ」の時代になって本格観測が展開されることになった。 | 昭和基地全景。 | 昭和基地主要部。 倉庫棟、居住棟、金属貯油タンク、発電棟、汚水処理棟、作業工作棟などがある。 |
基地のある辺り(黄色がかったところ)と、右下のほうにうっすら見える日本地図とを比べたら、どんなに広範囲化判るだろう。 |
南極大陸は鏡餅のような形をしている。巨大な氷河で覆われた大陸「氷床」なのだ。 | 南極大陸の最も高いいただきであるドームAは4000mを越す標高。 平均の標高は2290m、チベット高原を要するユーラシア大陸でさえ平均標高は900mである。 |
観測基地ネットワーク ・みずほ基地(標高2230m)、 あすか基地(標高930m) 年平均ー32.5℃、斜面降下風気候 ・ドームふじ基地(標高3810m) 年平均-54.3℃、高原寒極気候 ・昭和基地:年平均-10.5℃、沿岸気候 |
アデリーペンギン。卵は前半はオスが抱く。だからメスが餌を取りに行く。 |
集団で子育て中。12月から2月頃まで卵を抱く。 | 皇帝ペンギンのカップル。 この姿が見え始めると冬が近い事を意味するらしい。 |
オーロラ。1976-79年の国際磁気圏観測計画(IMS)に対応したロケット観測、人工衛星で観測。太陽風エネルギーが地球磁気圏に侵入し、そのエネルギーが極夜の電離圏、熱圏で消費された時に生じる現象がオーロラ現象である。 | 日本の基地の位置はオーロラの観測をするのにとても都合が良い。 左記の発生機構の解明に世界で最初のロケット観測が行なわれた。 |
地学分野での成果は大和山脈(氷床内陸部のヌナターク)での隕石の大量発見。 | 10次隊によって初めて9個の隕石が発見され、それぞれが異なった隕石種であることから、氷床流による隕石集積機構の存在が予想された。 | 2003年現在の収集数は16000個に及ぶ。この中には2個の火星起源隕石、9個の月起源隕石が含まれている。 (含まれている物質や希ガスの同位体で判断できる) |
極域固有の大気現象 ・オーロラ ・極中間圏雲(夜光雲) ・接地逆転層 ・極成層圏雲 |
炭酸ガスとメタンガスの濃度の変化。横の軸は何万年もを表す。 | 1970年から本格的な内陸調査が開始。エンダービーランド計画:南極氷床の成り立ちその質量収支の状態、氷床の動力学的状態を明らかにする事。 | 左記の雪氷計画は多くの成果を上げ第2期雪氷計画「東ドローニングモードランド雪氷計画」に引き継がれた。 | さらに1996年からの「ドームふじ深層掘削計画」へと発展していった。 |
最初の頃の雪上車。 小さかったので、一番必要な油もあまり積めなかった。 |
輸送の様子。 | 1969年建設時の日本最初の内陸基地、みずほ基地。 最初はかなり頑丈なものを予定していたが、いわゆるプレハブ形式のもので大丈夫であることがわかった。 |
建設資材を運ぶ。 1970年から本格的な内陸調査が開始。エンダービーランド計画:南極氷床の成り立ちその質量収支の状態、氷床の動力学的状態を明らかにする事。 |
現在の雪上車による運搬風景。かなり大型化してきた。 | 赤い点が昭和基地の位置。 | 南極の氷は何万年もかけて下のほうで海に向かって流れているようである。したがって、ずっと昔の事を知ろうとすると、動かない氷を掘削せねばならない。 そのためにドームふじ基地を作ったのだ。 |
現在の雪上車。 |
ドームふじ基地。 南極における高まりの部分をドームという。 |
掘削した氷を調べている。 | この表の縦の軸が34万年分である。 | 赤くなっているところが地球の季節の移り変わりがほぼ一定してきたことを表す。それが70万年前ぐらいからである。 |
掘削された氷柱。 ドームふじ基地 |
これを調べる事で、 過去の気温、二酸化炭素などの濃度の変動が判り、元素や微生物から太陽活動の変動や生物進化をたどれるなど。 |
2006.1.24 3000mの氷床掘削に成功。岩盤までは届かなかったが、それには理由がある。岩盤に近づくほどマグマからの熱を受け、氷が溶けかけているらしい。 |
日本の基地の位置。 昭和基地 あすか基地 みずほ基地 ドームふじ基地 の4つである。 |