WEB金蘭会

平田竹男氏



















OB戦に出場の平田氏





































 
学生時代のエピソードT




まず、サッカーを始められたきっかけは何でしょうか。

サッカーは小学校4年から夢中になりました。その頃は1968年のメキシコオリンピックで日本が銅メダルを獲得して盛り上がり、夏は野球をして、秋から冬にかけてはサッカーをするという時代でした。私自身はどちからというと引っ込み思案な子供だったのですが、4年生のある時、ボレー※でロングシュートが決まった瞬間からクラスで注目されるようになり、私のサッカー人生が(笑)始まりました。中学生になってサッカー部に入り、1年生の時から試合に出させてもらいました。(※地面から浮いたボールを蹴ること)

当時、好きなサッカー選手といえば?

ドイツが1972年欧州選手権・1974年ワールドカップで優勝した時代で、72年当時活躍したギュンター・ネッツアの、その不良っぽいところに魅かれていました。ポジション的にはゲルト・ミューラーにあこがれていて、ちょうどベッケンバウアーの世代で、男前で背が高くて運動能力が高いベッケンバウアーに対して、ゲルト・ミューラーは背が低くて運動能力も彼と比べてイマイチなんですが、何故か点が入るというところに魅力がありました。その後はヨハン・クライフ(オランダ)が好きでしたね。

ところで小中高とご一緒だったOさん、平田さんはどんなサッカー少年でしたか?

【O氏】ポジションでは僕が後ろ、彼(平田氏)が前(フォワード)でして、前でいつも強引にボールを取りに行き、頭から突っ込んで行ってがむしゃらにやっていたのを覚えています。

MOさん、KOさんにお聞きしますが、大手前時代の平田さんはどんな選手だったでしょうか?

【MO氏】 彼は今で言う二列目でして、もちろんうまかったです。それと独特のサッカーセンス、天性の勘を生まれもって持っている人でしたよ。
【KO氏】 当時はサッカーといえば体力勝負だったのですが、彼は理論とか組み立てとか、そういった作戦を常に考えて動いていましたね。
【某氏】そうそう、走るのは怠けるけども(爆笑)、、おっとこれはオフレコで(笑)。

なるほど、現在よく言われている「戦術」を考えてボールを出していたのですか。

高校時代の前半は、よく上級生の試合に出させてもらいまして、さっき記録を見てみると1年生の時の6/21に初めて試合に出ていました。ですから、同じチームだった上級生の先輩とは本当にいい思い出があります。後ろのハーフから先輩がボーンとボールを蹴って、「ひらた〜!、頼んだぞぉ!」と言われて一生懸命頑張っていました。その時はトップ(センターフォワード)だったんです。
高校の後半は少し下がり目の位置でプレーをしていましたが、その頃の試合で一番印象に残っているのは、引退間近の四条畷戦で同点ゴールを決めたとき、いつもは冷静なあるチームメイトが、泣いて抱きつきに来たのをよく覚えています。日頃はそんなに感情を表に表さない人でも、こんなに感激するんだ、とサッカーの素晴らしさを再認識しました。余談ですが、その彼とは京阪電車で帰りが一緒で、物理の好きな彼からはいつも物理学の話を聞かされていました(笑)。

そういえば、首にコルセットを巻いていた時期がありましたね。

ええ、辛い思い出です。1年の時、試合中に砂場に足を取られて頚椎を捻挫し、 その後の水泳訓練(服部緑地)に無理して参加したりして悪化し、2学期は学校を休みがちでした。学校を休んでいた時はよく深夜放送を聞いて気分を紛らわせていたりしましたが、その時先輩から「しっかり治してこい」と言われて真剣に治し始めました。その後、クラスのみんなが野沢温泉にスキー合宿に行っていた時、スキーには行かずに国体のサッカーのセレクションを受けるうちに元気が出てきたように思います。学校を休んでいても、バナナシュート※の練習だけはしていましたよ。(※カーブをかけたシュート)
実はその頃、高校の先生になりたいと思っていました、体育の。将来はサッカーの指導者になろうと思っていたんですよ。



PROFILE 学生時代の
エピソードT
学生時代の
エピソードU
官僚を経験して Jリーグ発足から
ワールドカップ
日本サッカー協会
G.S.として


ページ作成 S53年卒 岸 政輝