|
|
通産省時代、スポーツ産業の振興に取り組まれたそうですが。 はい 、ハーバードから帰ってきた直後です。 当時は半導体とか自動車とかを輸出し過ぎて、通産省の仕事でも日米摩擦が大きな懸案事項で、そのために内需中心に日本経済を変えていく必要がありました。ところが製造業では輸出依存が大きいため、内需依存が高いサービス産業を振興するという目的で始めました。ちょうどその頃、「働き蜂日本」をやめて「ゆとりと豊かさ」を推進するキャンペーンがあった背景から、内需拡大及びゆとり・豊かさの交わるものとして、スポーツや文化に関連するサービス産業を推進していったのです。 また当時の日米交渉を見ていて、外国との交渉で引けを取ってはいけない事を痛感したのですが、ハーバードでスクールの自治会長をした経験から、国際社会でポジションを張れる日本人としての自信がつきました。 ハーバードへは1年でしたね。 はい 、1年で修士を取りました。 ブラジルの大使館員の時はどんな仕事をされ、またジーコ氏とは会われましたか? 92年にリオデジャネイロで開かれた国連環境開発会議(地球サミット)が主な仕事でした。 91年5月30日にジーコさんが鹿島アントラーズのために日本に来日したその夜、彼と夕食を共にした際に、「明日から私はブラジルに行きますので、日本のサッカーを強くしてください。まだ鹿島(当時住友金属)は土のグランドでやっているんですよ」と私が言えば、彼から「ブラジルは今、累積債務で大変なんです。ブラジルを何とかしてくださいよ」と言われ、翌日の5月31日に私は飛行機に乗ってブラジルへ渡ったんです。 ここで面白い話があるんですけど、サミットとか大きな国際会議で一番大事なのは、大臣とか事務方ではなく、実は運転手なんです。いくらいいスピーチを用意しても、いくら立派な大臣が来ても、その場に間に合わないと仕事になりません。政府団の車列を組むのですが、海外では、ドライバーがなかなか言う事を聞いてくれない場合があります。そんなある日、ジーコさんと一年ぶりの再会するために、車で彼の自宅まで送ってもらった時、驚いた運転手さんは「セニョール・ヒラタは神様の友達なのか!」とそれ以降はビシっと態度を良くしてくれて(笑)、会議に間に合うようになったんです。 その日を境に、このサミットでは日本は必ず時間に間に合う国である、と他の国々から認められるようになりました。それぐらい、ジーコさんはリオの街ではヒーローなんですね。 ところでリオのカーニバルって、どんな感じでしたか? そうですね、思ったよりメロディアスでした。ビートはもちろんですけど。 そうそう、夜中の2時とか3時からでも盛り上がるので、もし行かれるのでしたら、夜の12時頃まで寝てから出かけたほうがいいですよ。(笑) 帰国して、エネルギー庁石油・天然ガスの仕事に携われ、外国との交渉は困難だったと思いますが、いかがでしたか。 ええ、その前の資金協力室長時代から、かれこれ5年ぐらい石油の仕事をしていました 。最初は中央アジアだったんですよ。カザフスタンの石油利権をまとめて、アゼルバイジャンをまとめて、ロシアもずいぶんやって。。。 でも、ブラジルとの交渉をやれたら、何でもやれます。というのも、ラテンの国は最後は賢いです。インフレの国というのは、全員がお金の計算をして暮らしていますから。 なるほど、そうなんですか。 |