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Jリーグの創設に関わられたきっかけをお教えください。 ちょうどスポーツ産業の仕事をやっていた時、日本サッカー協会の川淵さんがJリーグを作る話を持って来られまして、「よしやろう」ということで、その日のうちに即断でプロ化検討委員会のメンバーに就任しました。プロ化は高校時代からずっと考えていたんです。 それまでの実業団サッカーは、チーム名に企業の名前でしたが、そうではなく、もっと呼びやすくカッコいいチーム名にしたほうがいいと、ずっと思っていました。サッカーを企業の手から市民の手に移さなくてはいけないと、その時に強く訴えたんですよ。 ワールドカップの日本招致はご苦労されましたね。 そうなんですけど、実はたまたまFIFAの会長がブラジル人でして(笑)、私がブラジル大使館員。南米のほとんどの国は日本単独開催を推してくれていましたね。 ドーハの悲劇からワールドカップベスト16へと、日本が躍進した理由は? それはたぶん、協会の先輩達がやっている小学生から代表までのピラミッドの、各年代でのトレーニングセンター「ナショナルトレセン」の活動の産物でしょう。 ある日突然監督になって選手をかき集めても、強いチームは作れません。やはり優秀な選手を供給し続けることが私たちの大事な仕事です。そのためには資金も必要ですし、ボランティアの力も、また行政の応援も必要です。野球はどこの都道府県でも大きな球場がある一方で、サッカーの大きな競技場を作るにはいまだに議論されます。そういう意味ではサッカーはまだまだ日本ではマイナーなスポーツなんです。 また、優秀な選手を作り出すのは指導者ですので、いい指導者も育てなければいけません。選手と指導者、その両方を生み出す事をやっていかないといけません。今ようやくJリーグの監督も日本人が増えてきて、このあいだS級ライセンス講習会の講師として行った時は、ラモスさんや都並さんなど元日本代表の選手達が受講していました。彼らが指導者になると、ファンにもまた違う視点を与えてくれると思います。 官僚から日本サッカー協会の専務理事への転身についてお聞かせください。 いつかは行くのかな?と正直言って思っていました。 そういうこともあって、官僚の時は先輩の言うことを聞かないで(笑)思い切った仕事が出来たのかもしれません。逆に言えば、いつ辞めても悔いのないように仕事をしていたのかもしれません。毎年皆さんから年賀状をいただくたびに、今年は何をするのですか?と期待されるぐらい、通産省でMVPを取るつもりで頑張って仕事をしていました。 でも実際に辞めることになった時は、さすがにすごく寂しかったです。 奥様は賛成されたのですか? 女房は、何も言わなかったですよ。彼女は静岡の清水の出身で、高校の在学中にサッカーの全国大会で優勝した学校の出身なんです。進学校でありながら、野球でも選抜で甲子園に出場していた学校です。清水というのは、サッカーがすごく盛んな街だったので、自然に受け入れてくれたのでしょうか。また、通産官僚になってから知り合ったのではなく、大学のサッカー部の私と付き合っていましたので、別に違和感はなかったのかな。 そして突然に公務員試験を受け、外国の言葉もわからなかった私がギアチェンジして国際化し、またギアチェンジしてサッカー界に入った、それにただついて来てくれただけです。 ご、ごちそう様です。(笑) |