|
(ワタヤン)綿谷先生
お若いですね |
|
福井俊彦氏
在校当時 |
|
|
大手前時代の思い出をお聞かせください。昭和29年の卒業式次第と遠足の写真を持ってきたのですが、卒業生総代をされていますね。
この頃のことを覚えておられますか。
(注・卒業生総代は福井俊彦さん、在校生総代は高橋仁志さん(S30現近鉄支部長)でした。)
覚えていますよ。
これは2年生の時遠足で、淡路島の岩屋に行った時の写真ですね。学校は自由な校風でした。私の大手前の思い出というのは、綿谷先生の思い出とつながります。綿谷先生には3年間担任していただきました。
先生は「ワタヤン」と呼ばれ、ビルマ・インパール作戦の死の淵を乗り越えてこられた厳しい経験をお持ちの方です。でもそれを初めの頃は知りませんでした。綿谷先生は大きな声で明るく、メッセージが分りやすい先生でした。「君たちが明るい未来を作るんだよ。社会に役立つ人になれ!」と教えられたのを覚えています。綿谷先生は体育の先生ですが、一般社会も教えておられました。神戸大学の経済を出られたようで、経済学のいろはを説明してくださいました。教科書のままではなく、「経済を自分の常識の中に取り込め。」と言われ、こんなことをよく仰っていたのを覚えています。
それは、欲望逓減の法則というのですが、「一つ目のアンパンは、皆が飛びつくように欲しがる。食べると美味しい。二つ目のアンパンは、大体の人が欲しがる。食べるとまあ美味しい。三つ目のアンパンは、欲しい人がだいぶ減る。四つ目になると、余程飢えてる人しか手を出さない。欲望逓減の法則、それが収益逓減の法則となり、資本主義経済の出発点の原理です。」といって教えていただいたのを今でも覚えています。
経済学というのは実践的な学問だし、これからの世渡りをして行く中で、自分の常識の中で考えていくようにと教えてくださいました。
自由な校風の中で、明るい気分で将来のことを考えるようにと教わりました。幸い、時期的にも受験戦争の前だったから、受験のことはあまり考えずに3年間楽しく過ごしました。
がり勉ではないのに、いつも1番か2番だったとお聞きしています。
得意科目は何でしたか。
数学や物理が好きでした。暗記しないといけないのはあまり好きではなかったです。
クラブ活動は何をしておられましたか?
クラブ活動はしていませんが運動は好きでしたからテニスとか野球等をしていました。
放課後はどのように過ごしておられましたか?
下阪君、秋山君、今田君、清水君たちと話をしたり、又、音楽も好きでしたから秋山君の家にレコードを聴きに行ったりもしました。
音楽はどんなのがお好きでしたか?
クラシックです。 特にお好きな曲は何でしたか?
ウインナーワルツが好きでした。
レコード鑑賞がご趣味、そしてお好きなのがウインナーワルツってすばらしいですね。 放課後は他にはどんな思い出がおありでしょうか?
規律のある中に自由な校風であったので、男女共学だし親しいガールフレンドもいましたよ。
卒業の時には将来何になりたいと思っておられましたか?
小さい時は水兵さんになりたいと思っていました。
海軍に行きたい。船に乗りたい。と思っていたので背が高くなりたいと思い、飛んだり跳ねたりしていました。小学、中学の時は背が高い方で後の方だったんですよ。ところが戦争が終わって海軍がなくなって水兵になる希望が失われてしまいました。大手前の頃から背が伸びなくなり卒業の頃には前の方になりました。
職業を意識するようになってからは、何か自分で事業をしようと思っていました。
父は洋傘の輸出商をして自分の仕事を愛していましたが、この商売の将来性はないと思っていたので、私には「何か違った事業をするように。」と言っていました。大手前を出る時も大学(東大法学部)を出る時も何か事業をしようと思っていました。数学や物理が好きなので本当は理科系に行きたいと思っていたんですが、我がファミリーには科学者とか理科系研究者になった人がいないので、理科系に行くといったら父が反対するだろうと思いました。自分も事業をしようと思っていましたから文科系に行きました。
|