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外大に行こうと思われたのは? 外大に行こうと思ったのは、やりたい事はいろいろありましたが、教科の中では英語が好きだったからです。 母親から外大のロシヤ語の夜間の話をいろいろ聞いていたし、ほかの国の文化をきくとか、 外国の映画が大好きでした。そういう意味でも英語が好きだったのも、映画をずっと見ていて、 この表現聞いたことがあるということだったりしたんだと思います。テストも英語と小論文だけだったので、 ちょっと頑張って外大に行こうと思いました。 いつから、そう変わられたのですか?大学入学当時はアメフト部に入っていたと聞きましたが、 全く想像がつきませんでした。 コーラス大会の最後列で、穏やかにクチパクに近い状態で歌っていたイメージなのですが。 大学のバンド活動でボーカルというのは、どこで、どんな転機があったのですか? 人前でというのは、声が震えて緊張して歌えなかったです。だから人に歌が好きといったこともなく、 大学でアメフト部に間違って入ってしまって、途中からバンド活動をしたのだけれど、 残された時間があまりないなと考えたときに、考えて、考えて軽音部に入りました。 部室の前まで行くものの、入るまでに2〜3か月かかった。どうしよう、どうしよう、 自分にできるんだろうか、恥ずかしいし・・・という思いで入った。 絶対中学、高校の友達は、音楽をやりたいということも知らないし、 歌を歌うことも知らなかったと思います。 軽音部の部室の前で悩む姿は想像できますね。扉をあける姿は想像できませんが。 どうしよう、どうしようと悩んで、扉をあけるまでにすごく時間がかかってしまいました。 それで道が開けるというか、今につながっているのですからすごいですね? それまでは自分の中だけでの歌だったのが、大学の夏祭りや文化祭で、みんなが聞きに来てくれる、 そんな一方通行ではない、コミュニケーションぽい音楽を知ることができ、音楽っていいなと実感できたのが、 二十歳の時です。 学祭で、特に宣伝をしたわけではないのに、 声を聞いて人がたくさん集まってきたことが喜びだったそうですね。 はい。当時はビリージョエルの曲ばかりをやっていて、運動場に作ったステージで歌っていたら、 だんだん人が集まってきてくれてという体験をこれまでしたことがありませんでした。 その時に、音楽の力ってすごいなということと、歌いたいなという気持ちを初めて強く持ちました。 10代の頃ってみんな悩むんだと思うけど、その時にずっと悩んでいたのは、 自分って何ができるんだろうとか、どんな才能があるんだろうというのがわからなくて、 もしかしたら歌って言うのは、歌いたいって気持ちもあるけれど、 人が聞いてくれるちゃんとした歌というのもあるのかなと、初めて感じたのが大学時代でした。 悩むのはそのあともずっと悩むんだけど、自分の中でやりたいことが確立されていきました。 それでも歌手になるとかではなく、就職活動もせず、脚本家になりたいと思われたというのは、どうしてですか? 自分の家庭が、父が教師で、歌で食べていくということが想像がつかなくて、歌は好きだけど、 作れるわけではないので、そんな中で歌手になる道はないなと自分の中で決断した。 音楽と同時期にやっていたのが映画で、大学時代も映画が大好きで、一日に3〜4本ずっと見て、 夜通し見ているほどでした。そこで自分で何かゼロから書いたり作り出せるできるものがあるとすれば、 昔から書くことは好きだったので、そういう方向でできないかと考えて、 出した結論は脚本家になりたいという夢を一つ見つけて、一年間普通に就職はせずに、 塾の講師として働いてお金を貯めました。 それはまたチャレンジで、すごい決断でしたね。部室の前で数カ月悩んだ人とは思えないですね。 当時は就職も超売り手市場だったので、その気になればどんな所にも就職できる時代に、 夢に向かってというのは、すごいことですね 前向きというよりは、遅れてきた反抗期じゃないけど、親がこうしてほしいということをずっと意識してきて、 自分のしたいことは背けて、そのあとの人生を考えたときに、 自分が何をしたいのかわからないまま就職することが逆に怖くて、 OBの方ともいろいろ話をしたけれど、イメージがつかなくて、 このまま就職すると僕自身を見失ってしまうんじゃないかという気持ちがありました。 当時はバブルのころで毎日のように就職案内などが送られてきたけれど、封も開けず、 ベッドの下にしまいこんでいました。親が見て「なんで就職活動しないんだ」と言われ嫌な時期もありました。 親に、映画の世界の仕事がしたいという話をしたこともあったけれど、 だからと言って就職をしないという選択肢は親の中にはありませんでした。 そんな中で、働きたくないということではないとずっと言っていた。だらだらしたいわけじゃなく、 夢を一つ見つけたから、お金を貯めるために働いた。そこで塾の講師を選んだのは親の影響もあったと思います。 教えるということも嫌いではなかったが、居心地の悪い1年を過ごし、その後東京へ出ました。 <次ページへ> |