29年のご卒業ですがクラブ活動は何をなさっておられましたか?
大手前時代の事をお聞かせください。
クラブは演劇部・美術部に所属していました。
元は西区の阿波座の辺りに住んでいたのですが、
昭和20年3月13日の大空襲で着の身着のままで焼け出されて、
父の弟が千林商店街で漢方薬屋をしていたところへ避難しました。
長居はできないというので、千林と森小路の間の「とうこうえん」という閑静な住宅地にある一軒家に住みました。
学校は西区の日吉国民学校から松江近郊の町に集団疎開しました。しかし大阪から疎開してきた母は、その近くに一軒家を借りて、私と姉を呼び寄せ一緒に住んでいました。
ある日、宍道湖畔の料理旅館に鰻を食べに行ったら広島に原爆が落ちたらしいという話を聞きました。
「チッキ」でお米をせっせと大阪に残っていた父に送っていました。歌舞音曲の好きな一家でしたので、
お米を送り出すときの歌を歌って、結構陽気に暮らしていました。
終戦で「とうこうえん」に戻りまして、古市小学校を卒業しました。
千林から中心部の中学校へ満員電車に乗って通学させるのは可哀想だし、母が大変な教育ママで、
子供はどうしても大手前へやりたいということで、反対方向にある、滝井の帝国女子中学校に行くことになりました。
高校も併設していましたけどここなら出して下さるだろうということでした。それで帝国から大手前へ行ったという次第です。
帝国では総代で卒業証書をいただきましたが、文化祭ではお雛様の格好して踊ったり歌ったり演出したりして存分に楽しみました。
吉屋信子や中原純一の世界に浸って、上級生の下駄箱にスミレやレンゲの小さな花束と手紙をそえて、
いわゆる「S」のロマンチックな世界にひたっていました。宝塚歌劇を観に行ったりして、まあ遊び呆けてたわけですよ。
それで大手前へ入ったら、すごく頑張る方々ばかりで。勉強せな生きて行かれへんような世界でしょ。
まあそういうスゴイ雰囲気で私には合わなかったわけですよ。
それで、吉永孝雄先生について文楽へ日参して、
映画(洋画)は封切られたら必ず行く。二人お友達がいたんでね(安村操さん、萱沢梶さん)。三人でよく行きましたわ。
私は大手前では異端児でしたね。大手前の人とはあまり付き合うてませんわ(笑)。
京大や東大行くようなえらい人とは・・・。岸田善三郎先生には授業習っていましたし、
吉永先生とは授業は受けてないけれど文楽で親しくなって可愛がっていただきました。
担任は一年が松下典太先生、二年が須崎汎先生、三年は宮崎重利先生。岸田先生の授業で歴史が好きになりました。
進学先は宮崎先生が「あんたは奈良女子大がいい」とおしゃいました。父がお寺巡り好きで、私も奈良好きだったし、
家庭麻雀は中学で卒業していましたし(笑)。帝国女子中学のとき枚方に住んでおられる南画の偉い先生について絵を習ってまして
「とにかく毎日一枚ずつ描きなさい」と言われていました。父は謡曲、母は箏、三味線、鼓、姉はちょっと別嬪さんで日舞習っていました。
私は文楽の研究家にでもなろうかなと思っていました。
でも奈良女子大に行ったら国文科はいまいち。国文希望を捨てて地理へ行きました。本当は岸田先生の影響で歴史をしたかったんですが、
名物先生は文学部の 帷子二郎、理学部は岡潔、家政学部は波多腰ヤスの諸先生。そのとき一年浪人したわけですよ。
発表の日は同級生と朝から奈良でお寺巡りし、遅くに家へ帰って「落ちてたわ」と言ったら「当たり前や。そんだけ遊んでたら」と母にこっぴどく叱られて。
土佐堀のYMCAの予備校に通って再度受験しました。
まとめると、大手前の頃は劣等生で遊び呆けてた、頑張ったのはまあ絵と文楽ですな(笑)。
奈良女子大学を出て最初私立大谷学園で3年間地理・歴史の先生をしてました。左藤義詮先生のところです。
知事選に出馬されるときは選挙運動にもかり出されました。
私の人間としての素養には歌舞音曲と仏教思想という文化的な土壌があるわけです。
大手前でしっかり培って一年浪人してかえってよかったと、振り返ってみて納得していました。
大谷は女子校なので、少し思うところがあって、公立の採用試験をうけて、我孫子の府立阪南高校へ赴任しました。
当時は新設校でしたがル・コルビジェのお弟子さんの坂倉健三さんが設計した斬新な建物でした。
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