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現在も各方面でご活躍ということで本当にすばらしいですが、大手前高女時代のお話をお聞かせください。 当初、小学校の先生からは清水谷を勧められたのです。でも梅田にあった大阪で一番伝統のある梅田高等女学校が大手前に移転してくると聞いており、大手前なら自宅(旧大阪市東区内淡路町)からでも歩いて通えるということで受験いたしました。 入試科目は数学、国語、作文の3科目だったのですが、国語で大失敗をしました。「熟」という漢字を使って熟語を作る問題だったのですが、焦って「熟語」という言葉が思いつかず、「熟果物」と書いて帰ってきました。合格発表はよう見に行けず母に見に行ってもらいました。合格したので今では笑い話ですが、今でも忘れられません。 大正12年のご入学ということですが、入学後の生活はどのようなものでしたか? 制服はなかったですが服装には決まりがあって木綿のもの、筒袖、袴はこげ茶で後ろに雄針雌針をしたものでした。 入学直後の英語の授業で師範学校を出て間もない飯田先生がフライパンを持って教室に入って来られて、「あんた方、英語ははじめてかも知れんけど、英語は、(フライ)パン、ペン、ピンみたいに日本語の中にいっぱい使われているのよ。これも英語やで」とおっしゃったのが印象深いです。この年、学校が梅田から大手前に移転したので生徒全員椅子を一人ひとつずつ抱えて歩いて運びました。 今では考えられませんね。 2年生のときは、日本が外債を持って困っている、国家財政が危機に瀕しているというので、クラス全員が1銭ずつ出し合って、毎日47銭くらいずつ郵便貯金して、2年生の終わり、ちょうどクラス替えの前に寄付したんです。当時のお金で100円ほど貯まっていたと思います。すると、これを掲載した新聞が呼び水となって大人の人も大勢寄付しはったということです。屋上に天体望遠鏡のある天体観測所ができて夜空を見たのもこのころですね。 今でも女子高生が国に寄付することは今ではちょっと考えられません。 失敗もしましたよ。4年生のとき、化学の実験でフラスコに硫酸を入れて加熱していたのですが、余計なことに蓋をして、ソーッと様子を見に行ったら、蓋が飛んだ音にびっくりして尻餅をついてしまいました。それ以降クラスメートからは「腰抜け侍」というあだ名を頂戴しました。 当時よく口ずさまれた歌はございますか? 音楽の先生が親しくされていた声楽家の柳兼子さんを授業にお招きし、お腹から歌うことを直接ご指導いただいたり、ラジオにも出演したりしました。曲は『四葉のクローバー』だったかしら・・・。 体操はダンスを習ったりしました。ただ妙に記憶に残ったのが、4年生の物理の時間に先生が「ノーベル賞という賞があって優れた科学者に送られる賞だが日本人ではまだ誰も受賞していない」というお話しがあったことでした。「そんなものがあるのかな」としか考えませんでしたけど・・・。 卒業のとき、将来のことについて何か希望などはございましたか? 金蘭会の一員になるということで、金蘭の交わりの如く、自分のためだけではなく、みんなのためになる事ができればいいなと漠然とは考えておりましたが、具体的な展望があったわけではありません。 |