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思い出に残る恩師の方はいらっしゃいますか? (1年生の時の担任が)吉田先生って言う理科の男の先生だったんですね、秀才やったいう評判の方でした。その方がね、菊みたいな白い花をね、示してね、「この花はなんと言いますか。名前を言うて下さい。」って、ゆわはったんですよ。そこらへんにようけある花です。あの、白い、どこにでもある白い花の、春になったら咲く。だぁれも知らないんですね。で、みな、下向いてるでしょう。わたしも下向いてね。解らないんですよ。先生がね、「だれも知らないのか。」って、(笑い)そのとき安岡さん、あなたなに組やったですか? 安岡:私はハ組やったですよ。 吉岡さんなんかは、違う組やったから、吉田先生は、やさしかったかもしれませんけど、わたしたちには、「誰も知らないのか、これは、シャスターデイジーと言うんだ。」と言われたんですよ。その、シャスターデイジーだけが頭へちゃんと入って、1年で、教えてもらったシャスターデイジー、今でも覚えてる、(笑い) すごいですねぇ。そんな前のことを覚えておられるなんて。 だって、ものすご、怒られたんですもん。わたしら、全員知らなかった。ありふれた花なんです。 それから覚えてるこというたら、修身の時間、1番先にね、覚えさされたのは、色刷りのこんなとこが、その修身の本の前のとこにあって、それを、第1番に覚えよ。それ、むずかしいんですよ。えーと 『豊葦原の瑞穂の国は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。さきくませ、宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、まさに天壌(あめつち)と窮(きはまり)無かるべし。』其れ、暗唱さされたんですよ。(笑い) 大手前高校での生活はいかがでしたか? 厳しいでしたわ、勉強がね。で、私は、弱かって、体操とか、遠足とか、ほとんどね、行けなかったです。私自身わね。ものすご、弱かったんですね。6つの時スペイン風邪が大流行したんですよ。何万って人が、亡くなったんです。わたしもかかって死にかけて、ほんで、3日ほどね、40何度が出て、もう、お医者さんがダメだと言われて、で、私が、夢うつつでね、君が代を歌ったそうです。 私、父がね、ものすごく厳しくてね。お正月が来たらね、床の間に、兄と一緒に並んで、君が代を歌わされていたんですよ。父はね、日露戦争出て行って、金鵄勲章もらっているような、まぁ言うたら、堅物ですからね。床の間の前で、君が代歌えっていわれたらね、わたしら、はいってねぇ。ちゃんと歌わないかんのでした。ただそれを夢のなか、うつつで言うてたんでしょうね。私それ歌たことは覚えてませんよ。母が、それ聞いてぎょっとなった言うてね。もう、死ぬんと違うんかなぁ。と思った言いますんねん、後で、聞かされたんですよ。 |