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そのころ結核が流行ったんです。ほんで、私が二十歳まで生きられないといわれたのも結核が流行ったからだと思いますわ。そしたら、やっぱり案の定、学校出たら、胸悪くなったんですわ。胸悪くなったらすぐ結婚したら行けないと止められて、しばらく養生しつつ、注射に通ったりしてました。だから、本が読めた、というような、暇がありました。 主にどういう本をお読みになっておられたのですか? 本読むゆうても、やっぱり、学校の勉強ものすごく激しかったですからね。女学校の2年ぐらいに日本文学全集が出ましてね。「出家とその弟子」とかね。ああいうのが出て、ものすご感激してね。読みたいけど、勉強もせないかんし、半分は、小説を読んだりしていました。 兄が京大の英文科でしたからね、やっぱり、本があったんですね。ほんで、手当たりしだい、チエーホフの、『桜の園』だとかが流行していてそういうものに感激したんですね。ちょうどそのころ、「梅林を額明るく過ぎゆけり」が日野草城先生の選に入り昭和14年の「旗艦」に掲載されました。 その後、ご結婚なさいましたね。 結婚は、割に友達のあいだでは、遅かったんです。ていうのは、結核の後はすぐに結婚してはいけないと言われたから、満で24くらいだったかな。だけど主人は結婚して2年目の秋に亡くなりました。薔薇の句は結婚したね時のこと読んだんですよ。結婚した朝に、バラの花が輝いていた。というようなことね、そんなん普通の人あまり句にしなかった時代だから。それを先生が取って下さったんです。 あのころに結婚なさっても俳句を習いに行かれるというのはあまりないことですよね。 主人はそういうことに寛大でした。主人は一番はじめ、日銀受けてねぇ。あのころ今みたいに不況だったんですよ、日銀落ちたんですね。そして世話する人があって、汽船会社へ行ったんですよね。ほんで、夜勤が多いんですよ、それを幸いにね。(笑い)つまり、私がなんで俳句をようやったかというと、いつも一人で留守番せんならんかったから。 でも急にご主人がお亡くなりになられたんだそうですね。 ゼンソク。つい、その前まで勤めてまして元気だったんですよ。だから、ぱっと亡くなった。2年しか一緒に過ごしてなかったです。それで、籍を元に戻しといたほうがいいとおもって、それに兄が一人でしょう。もし、兄が亡くなったら、系図が全然無くなる。それも困るしと母はそう思ったんでしょう。 でも、主人はものすごくわたしがいい句を読んだいうて喜んでくれたんだから、俳句のほうの名は、桂にしようと思って、もう変えなかったんですね、ずっと、桂にしてました。丹羽信子ではね…。丹羽って言うのは、やっぱり「のぶこ」言うたら濁音、丹羽もなんか、こう、「なにぬねの」になったら、ムニャムニヤするし、やっぱり桂いうのが響き(キレ)があっていいと思いました。 それで、お里に帰られて就職なさった。 それはねぇ。あのころの世情でせざるを得ないんですよ。何もせんと家にいることはできないんですよ。戦争でね、、そうでなかったら、工場へ行く、徴用にかかるんです。朝8時から、あぁいう、戦争のなにをつくるでしょう。母が、私が弱いから、そこへ行ったら、もう、死んでしまうの当たり前やと思ってね、それで、一生懸命になって、楽なところへ行くように探していたんですね。そしたら私が花嫁学校行ってたでしょ。堂ビルにある花嫁学校ですわ。その先生がまたとってもすばらしい先生だったんですよ。それで、その先生が花嫁学校に居られて再婚された、再婚された先が、生島遼一というフランス文学の人でした。その先生がね、神戸大学の予科の図書室にね、世話して下すって、こっちへ行くようになったんですねん。 そこ、本いっぱいあるでしょう。で、その本は読んでもいいんです。なんぼでも読みたい本いっぱいあった。その頃もうね、戦争でね、自由に本なんか手にできなかったですよね。そういうのもわたし、神様が上手いことそういう風にしてくれはったんと違うかなぁと思います。ただ、通うのがね、遠くって、前の神戸やったら近いけどね、朝は早うに出てね、通うのは辛かったですけどまぁ、通いました。 そこへ、空襲受けましたわね。3月14日、大阪の第一回の空襲にもう、うちは、めらめらめらっと燃え上がって。それで、神戸まで行けないほどの交通難になってしまったんですよ。とても通えんようになりました。それで、うちが焼けたために、住道というところに行きました。その疎開した裏の方が、近畿車輛言うとこの部長さんだったんです。重役さんの世話をする人を探しておられたところへ私が行ったもんやから、私を紹介してくださって、ぜひ言うてね、いわはるから、ほんなら私も乗り気になって、神戸は遠いしねぇ、とても通えないと思ってねぇ、こっちへ来ましてね。ずっとそこでね、定年まで勤めました。 |