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昭和19年3月大手前高女を卒業し高等科に進むことになりましたが、 ともかく軍人の妻ということになってたら動員はかからないからと、親の決めた縁談で、 それでわたし籍だけ入れて、初めは和歌山で主人の両親と一緒に暮らしていましたが、 のちに東京の夫のもとに行きました。 東京で3月10日の東京大空襲は大丈夫だったけど5月の空襲で皇居も焼けたとき、 私の青山の家も焼けました。焼けて関西へ帰ってくるのは大変だったです。 おむすびを3つだけもらってね、ともかく西の方へ向かって走る列車に乗って。 乗ったけど結局機銃掃射にばっかりあうから、乗り換え乗りかえでね、 直江津経由で丸3日72時間かかって京都に着きました。 自伝を読ませて頂いて先生が和歌山のおうちで苦労しながら新聞をお読みになられたのには感動しました。 夫が海軍省にいたから終戦処理で帰れない、 それで私は和歌山の両親と共に疎開していました。 ラジオはかろうじて聴けるんですけどね、新聞はあの頃は配給制で疎開している人には 売ってもらえなかったんです。 だから新聞が読めない。ラジオはガアガア言うてなに言うているか分からない。 終戦の詔勅は聞きましたけどね。 終戦後のいろいろなニュースが知りたい、全然ニュースが入らなかったのがつらかったですね。 嫁が新聞読むなんて田舎では考えられんわけです。 本家で新聞を取ってるから焚きつけに新聞ほしい言うてもらいに行くんです。 焚きつけだからね、昨日来たものを渡してくれるときもあるけれど、大体1週間位たった新聞でしたね。 それをもらってきてそれを焚きつけにする前にサーと読んでゆっくり読みたいところは破って取っておきました。 それで終戦後の情報を得ていたのです。 憲法改正について近衛案というのが出て、それに飛びついて一所懸命ぼろぼろなるまで読んでね、 夜だれも見られんように読んだものです。だから全部宙に覚えてしまった。 でも今から思えばあの案は進駐軍がだめだと言って、それで今度進駐軍の案が日本の憲法になったんですけどね。 あの時はうれしかったですね。男女平等になって女性にも進学の門戸が開ける。 女性もいろんな公職や就職の自由が出来、家族制度、男尊女卑の家族制度がなくなる。 もうほんとに天にも昇るような心地、でも誰にも話す相手がいないですよ。 皆古い考えの人ばかりだったから。 夫がやっと復員してきて京都大学の研究室へ戻ったので、私も自由になりました。 ところが海軍省に席を置いていたことから公職追放になったんです。 それで大阪に移り、そこで三千子が生まれた。 私はその頃に法律家になって頑張りたいという思いになってきました。 <次ページへ> |