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写真を見ながら昭和のはじめの頃と思いますがこの頃のことを覚えておられますか? よく覚えていますよ。三年上の姉も大手前で、私の口で言うのもおかしいけど、 姉は非常によく出来ましてね、いつでも学年で首席だったのでね、 私は小学校はこの近くの西天満小学校ですけれども小学校の時から期待されてね、お姉さんが一番だからあなたも一番で入ってくれとヤイヤイみんなに言われたんですよ。 小学校の時はね、「ええしの子」と言われていました 家で大阪弁を使う人はいなかったから「ええし」とは何のことか全然分からなかったですよ。大手前に入ってからいっぺんに大阪弁になってね。母は大阪の人ではないのでわたしが友達と電話しているのを聞いてびっくりしたものでしたね。 お母様は神戸のかたですね。 祖父は造船会社を経営したり代議士もやっていたんです。 クリスチャンでね、神戸教会や神戸YMCA学院を創設したり社会事業をやっていましてね。 だから母も東京と神戸と半々ぐらいで、母はいわゆる「ええし」のお嬢さんでした。 先生はピアノもなさっておられたのですよね。 家ではみながピアノを弾いていました。 今生きていたら140歳の祖母も、母もピアノを弾いていたし、祖母の妹というのが 上野音楽学校のピアノ科の第1回の卒業生です。 皆がピアノをやりますのでね、 あの頃はグランドピアノがある家は少なかったですから。皆聞きにくるわけですよ、 そして母や姉が弾くと家の前に人垣ができるほどでしたが、私は姉の様に上手ではありませんでした。 でも音楽は大好きです 絵もお上手でいらっしゃいますよね。 東郷青児さんが、父と親しくてね、私をすごく可愛がってくださってね、 今から思うと贅沢なことですが四つ五つ位から私に東郷青児先生個人で、教えて下さり 「この子は絵の才能がある」といってくれてね。その頃ね、東郷青児さんは宇野千代さんと一緒になって、 東京のマスコミを避けて、一時夙川に住んでおられたんです。それで家に良く遊びにこられて、 絵の展覧会の時は、「静ちゃんを連れて行く」と言って、私を連れて行ってくれてね。そしたらね、 青児さんはお洒落だしね。混んでいるようなときには私を肩車してくれました。 はじめのうちはそれで良かったのですが幼稚園の頃には、しまいに養女にくれ言うて、 青児さんが父と喧嘩になったとか。今から思えば青児さんの養女になってた方がよかったかしら。そういう事でどっちかと言えば絵の好きな子供だったです。 二科展に出品された東郷青児先生の「少女の印象」は数え年7歳の私がモデルです。 本当に先生はとても絵がお上手で俳句や習字もすばらしいですね。 母が日本画をやっていまして、上村松園さんの弟子でしたし、 美術に親しむ機会は多かった様に思います。 <次ページへ> |