インタビュー
佐藤一男先生
飯田 順先生
大森 操先生
校門とセーラー服
村山義孝先生
宮森先生
大手前時代の思い出
大手前時代の思い出ですが特に印象に残っていることをお聞かせください。
佐藤一男先生
をよく覚えていますよ。 先生には弁護士になってからもよくお会いしましたよ。 受け持ちでなかった先生でも私が社会に出てから、却ってお親しくなった方も多いですね。 佐藤先生は
飯田順先生
と二人で英語を教えて下さいました。 受け持ちの先生は
大森操
という国語の先生で美しくやさしい先生でした。 飯田先生は、ミスイイダと呼ばれていて津田塾出身の人気のある先生でした。 のちに飯田先生がアメリカに本部を持つ国際ゾンタクラブを大阪にも設立することに尽力され、 私も法律家として参加し、今もチャーターメンバーゾンシャンとして活動していますが、 これも大手前でミスイイダに出会ったおかげですよ。 私の人生に大きな影響を与えて下さった数多くの先生方や友人たちは大手前の方々です。 (
アルバムを見ながら)
先生の時代も制服はこういう
セーラー服
ですか。
こんなんですね。あの時はこの結び目からね5センチないといけなかった。 それからスカートはひざから10センチ。長くても短くてもいけない。厳しかったですよ。 一年生のスキー旅行、二年生の夏の丹後と楽しい思い出もありましたがだんだん、 軍靴の重苦しい響きが迫ってきました。 私のうちでは今の軍部は良くないという話は、毎度毎度聞かされていました。 けれどもあの頃は子供でもそんなことを他人に「お父さんがこんなこと言っている」 とは間違っても言わなかったです。 心の底では軍国主義は好きでなくてもね。
その時大手前では校長は
村山義孝先生
でした。軍事教練に熱心でした。 陸軍大佐の方を教練の教官に持ってこられた。あの頃はね陸軍大佐というのは連隊長ですからね。 格からいえば。女学校でそんな軍事教練にね、大佐を持ってくるというのはどこもなかったです。 中学でもなかった。だからものすごく教練が盛んでしたね。 私も5年い組の学級委員として中隊長をやらされました。
お家では平和主義でしょう。 たいへんでしたね。
使い分けしていましたね。
英語を教えて欲しいといって先生にお願いに行かれたとお聞きしていますが。
大手前は家政組と進学組とに分かれていました。 進学組は将来上級学校へ行ったら英語が出来なければ話しにならないことは分かっているし、 また社会に出ても英語が出来なければ駄目だから教えて欲しいと学校へ働きかけたのです。 大手前はいち早く英語を廃止にしたのです。それでものすごく学校側と対立したんです。 私は学級委員をしていたので、家庭がそうだったからか余り学校の権威というものに物怖じしないたちで、 なんでも先生にものを遠慮なく言ったからそれで同級生には評判良かったんですけどね。 父も言っていましたよ。「 娘を女学校にやっているのは、 軍事訓練を教えて欲しいといって学校へやっているんやない。 これから世の中に向かって行くのに、英語とか必要な教養を身に付けてもらうために学校にやっているのだ。 軍事教練ばかり習うのなら退学させる」とまで。
英語は教室では教えてもらえないけれども飯田先生に藤棚の下で希望者だけ教えていただきました。 その時も英語の本を持っていたら怒られましたよ。皆を代表して私がいったのですが、 今から考えてみるとその頃から多少弁護士の素養があったんですね。 それでね、その敵国語はいかんというのはおかしい。 北中(北野中学)ではやっているのに何で女学生だけはいかんのやといってね。 そしてしまいには敵国語がいかんのやったら枢軸国のドイツ語を教えてくれといいました。 そしてそれも藤棚の下で希望者に教えていただきました。 それはね後にものすごく役に立ちました。
大手前の学力のレベルは高かったそうですね。
レベルは高かったですよ。物理は
宮森先生
で有名です。 宮森先生の物理のレベルはモノすごく高くて、私も好きになり、今も役に立っているんです。 物理だったら自分が旧制高校ぐらいの物理をやったからと思ってね。三高の物理の教科書を見て、 あんまり劣ってないと思ってね。弁護士になってからも機械の構造の事件などでは、「物理やったらわかるよ」 と言って乗り出していくんです。数学なんかもレベル高く 微分、積分、順列組み合せ、確率なんかもね女学校の5年生でやりました。 とても面白くて好きになりましたし、国語はもちろん程度高かったですね
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PROFILE
幼い頃
戦争について
大手前時代の思い出
最初の結婚
ママは大学一年生
家事と育児と六法全書
佐々木哲蔵 氏と結婚
参議院議員当選