昭和20年の頃はどうなさってましたか。
清子氏)女学校を卒業して、もうちょっと上の学校へ行こうと思ってました。東京の方へも行きたかったけれども、女専の創立者で帝塚山の土地を寄付してくれはった山田さんを両親がよう知っていて、だから、女専へ行ったらええがなって言うてくれて、たまたま受かったから女専へ行って、戦争が始まり12月に繰り上げ卒業して、家でゆっくりしていました。
ところが、国民全部働かなあかん ということで、早速専門学校の平林学長さんにお聞きしたら、「明日から泉尾の高等女学校へ行きなさい。」と言われ、「どこにあるんですか?」ってお聞きしました。あんまり船場から外に出たことがないから大阪のどこにあるのか判らなかったくらいです。(笑い)
うちの前から電車で乗り換えて、大正区、今でこそドームやらありますが、その頃は、え〜っという所やったからね。戦争中やったから、学校へ行っても、ほんとうは英語の先生はいらなかったんよ。でも泉尾の校長さんは「ABCも判らんようじゃ困るから、せめてABCだけでも教えてやってくれ」と言わはって、経験も何もないけれども勤めることができて、一所懸命英語の先生としてつとめました。
生徒さんと歳が変われへんかったですよ。
9日の歴史ミュージアムの時も忘れず生徒さんが来てくれはった。又、「 同窓会へ来て」と言うてくれはりました。戦争中一緒に工場に行った時には生徒さんと泊り込みもしました。
お人柄やから、やっぱり慕われておられるんですよ。
清子氏)「お母さんが習いました」って息子さんが来はったり、銀行へ行ったら「先生」と言われたり。窓口にいたはんねんよ、びっくりしたわ。支店長に「先生しとったんか」と言われて、今思ったら頼りない先生でしたが、戦争中ほんとにケガがなかったのだけが良かったと思っています。
よその工場では、片目を失うとかの事故があったんですよ。思い出したらぞっとするけどね。おかげで皆さんに助けられて、こんな頼りない先生でしたが良い社会勉強させていただきました。
戦争がなかったら、きっとそんなお勤めはなさらなかったでしょうが、人生何が起こるかわかりませんね。その後、英語でまた、お勤めなさいましたね。
清子氏)終戦になってもすぐ辞められなかった。3月の切れ目でやめた後、女専の先生から「ちょっと来なさい」と電話がかかってきて、CCDと言うてアメリカ軍が手紙を検閲するところで、お宅ら若い方は知りはれへんけど、財閥などを選って情報を分析するところへ勤めました。
で、電報局に雇われたんだけど、私らより学識のある偉い人、例えば船長さんやった人とか会社の重役さんやった人とか そんな男の人も居たはって、わたしら女の子やから日本語の電報を英語にしなさいというのだけど、まず、日本語が解れへんのよ、電報の言葉が。
私は始めは往生してね。まるのこ ってなんやのって、“丸い鋸”やて、そんなもの知らんかった。全く何にも知りませんでした。
男の人が電報訳したはるのはどんなんか いうたら、官報で何十枚もあるようなのを訳したはんねん。私とはだんち(段違い)やなと。私やらは、何にも仕事してへんのと同じやけど。
アメリカさんは、仕事してる時にグランドミュージックを掛けてるのよ。それにはびっくりしました。(笑い)。
アメリカの若い兵隊が文書を持って来たの。ひらがなと漢字でね、ちゃんと書いてあるのよ。「これあんたが書いたの」と聞くと、「そうや」と。 日本は敵国の事も英語も勉強しないでいたのに、アメリカは日本のことを勉強して、こんな若い二十歳過ぎの兵隊の人がちゃんと日本語が書けるいうんやから。これではね、日本という国はもっと勉強せな、負けたんはあたりまえやなと思いました。
せやけど、そのわたしらみたいな頼りないものでも一所懸命しているものは雇ってくれるのね、アメリカと言うのは。ちょっとずるをするとね、あくる日に封筒が来るのよ。
面白い男の人が居たはったけど、ぱっとその封筒が来たらもう、来んでよろしいとそういう事やったの。
終戦の後は、預金封鎖になってね。 お金が余分に出ないので、アメリカCCDの給料でやっと靴・ラバーソウルを神戸まで行って作りました。靴がなかったんですよ。もう終戦の時なんか下駄履いててね。
私ね、外国にどうにかして行きたいと思ったんですよ。女専の卒業旅行ではハルピンまで行けて。ヨーロッパの風景をハルピンで想像するわけ。大手前の卒業旅行は、私達は国内でした。
上級生なんかは、船に乗って楽しい旅をなさったと聞きました。外国帰りのお土産を頂いたりすると、あこがれは増すばかり。
結婚してから、主人がたまたまアメリカへ招待されて、しゃべれんでも字を見たら大体判るし、英語の国やから安心して行きました。そこでアジア・アフリカ、南米から色んな30数カ国の人と一緒に会議して、ご飯食べて、1ヶ月から2ヶ月ほど暮らして、国際的な洗礼は受けたわけです。
よその国の人、例えばアメリカ人なんか鼻がとんがって、いかにも今から噛みつきそうな感じで恐いって女の人は皆言わはるねん。当時はね。でも私はどういうわけかそんな感じは持ったことがなかったんです。
インターナショナルですね。ゾンタで一緒に海外へ行くでしょ。そしたら、もうほんとにファーストレディーというふるまいをなさるの。私いつも尊敬しています。
清子氏)アフリカの人はねぇ、お金持ちが多く、有名大学出てマナーも社交術もスピーチも何もかも上手い、たいしたもんですよ。今はみなそういう風になってきたけど。
昭和32年にアメリカに行って、アフリカの人ではガーナの人に逢うて、インドの人ではガンジーの孫に会ったりしたでしょ。そこで、あぁそうか、世界の人はこんなんやねんな。というのがよう判ったわけです。
クラブの会長としてのマナーやこうあるべきという事を私は徳光さんに教えていただきました。こういう風にするんやなというのを見せていただいて良かったなと思っています。
清子氏)そんなことないない、ファーストレディーは他にたくさんいらっしゃいます。
偉いのはよう知ってますけど、そういう所に出られると、とても存在感があって、貫禄が自然と滲み出るんでしょうね。
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