WEB金蘭会





徳光正子さん



ヨルダン川



昇天の教会



エルサレム






マグダラのマリヤ





 
正子さん大手前卒業後

 

おばあさま、お母様も 絵も字もお上手です。正子さんも洋画で個展なさってますが、絵はいつからなさっておられますか。

正子氏)高校時代はしてないんですよ。集英小学校の時に、二科展の大西先生に可愛がってもらって。たとえば展覧会があると、先生が「徳光、お前の絵を出すことにしているから描きなさい」と言われて描いて。中学の時は、握りこぶしのデッサンをしてる時に「上手ね」と美術の先生に誉めていただいて良い気分だったこともありましたけど、その頃 基本的に絵は好きじゃなかったんです。

大手前では友達に誘われてコーラス部に入ったんです。高校の芸術選択で初めて絵を選択したんだけど、結局好きじゃないからあんまり製作していません。 それが何でするようになったかというと、大学に入った時に、私の尊敬してる人から、とにかく何でもいいからクラブ活動を一つしろと忠告を受けてました。

ところが私、高校時代に教会に行って洗礼を受けていて、教会の青年会の活動で日曜日がものすごく忙しかったんです。 クラブ活動をしようと思っても、教会のいろんな行事や奉仕や楽しいことがいっぱいあって、クラブ活動との両立って難しかった。

そしたら、所属しているだけで何もせんでいいというクラブがあるからって、ここに入んなさいって。 何のクラブっていったら美術部だって。じゃ、まぁ入るかって、絵はまんざらでもないし、昔上手いとも言われたこともあるしと。なんか軽いのり。。で美術部に入りました。在籍だけして1年に1回だけ合宿に行って1枚絵を描いたら良くて。あまり絵を描かない美術部員でしたね。

祖母の看病の2年間、主治医の高橋先生に自分の子供のように可愛がってもらいました。 病院には写真部があって例会にによく連れて行ってもらいました。

どこの病院でしたの。

正子氏)日生病院です。写真部の中に絵を描くグループがあるから、その展覧会に絵を出したらって言われて、私は絵はそんなに好きでもないけど、「正子ちゃん、あんた若い身空で看病だけしてるのもちょっとせい。。無いよな」って。で、1枚か2枚絵を画廊に持って行って自分の会費だけを払ったら終わりの難しい規制のない会だったのでお世話になりました。1年後の展覧会で画廊に出かけたら嬉しいことに、ほとんどそこに顔出さなかったのに、画廊の方が私の絵を覚えていてくれたんです。

その時、勉強になるから個展しませんかって誘われたんです。それで、私何にも知らないでその次の年に個展をしたんです。

それ、いくつ位の時でしたか。

正子氏)27・8だったと思います。昭和48年真砂町の画廊で。 私、そのときちょっと人生の転機だと思ってたのね。なにか打ち込めるものがあればと思っていました。たまたま “個展” て言われたから、あっ、じゃぁ、これだっと思ってね。 最初で最後のつもりで個展したの。最後だと思ったから、懐かしい友達にも案内状出して。そしたら、画廊始まって以来と言う位、人が来たんだって、それも想定外だったんです。

でもね、みんな来てくれて、こんなにも励ましてもらってどうしようと思ったの。そうか、じゃあ今までの人生に区切りをつけて前を向いて歩いていくことだなって、自分なりに思ったんです。それがきっかけです。

画廊で出会った先生が海外の展覧会の応募の詳細を送ってくれたりして、当時は、まだ責任ある仕事もそれほどしてなかったので、海外の展覧会に応募してみると、これが入選したりして。 最初で最後のはずが、「続けることに意味がある」とか言われて、それから数年に1回ずつ個展をするようになって、なんとなく続けているうちに、今ではライフワークになりました。 ある個展の時に、美術部の連中が見に来てびっくりしてました。 絵を描かなかった私が絵を描いている、当時絵を描いてた人はみんな絵を辞めているのにと。

わたしも何回か個展を拝見したけど、どういう風にして個展をされるようになられたのかなという所は知らなかったんですよ。

正子氏)現実的なきっかけはそういうことなんです。 ただ、絵を描くことになった精神的なきっかけは、また別なんです。

祖母の病気は癌で、当時丸山ワクチンをもらいに東京の日大病院に行ってたのです。日帰りするんですけど、せっかく東京まで来たんだから、時間待ちに銀座の画廊街を歩きました。その時に強烈に印象に残った作家が有ったんです。

それは、どなた。

正子氏)それが、香月泰男さん。有名な人だって知らない位、私は当時絵に興味なかったんです。その人はソ連に抑留された経験のある方でシベリアシリーズというのが有名なの。それも後でわかったの。でも私の見たのはそのシベリアシリーズではなくて花シリーズでした。 どの画廊に行っても、えっと感動したところに「香月泰男」の名前があるんですよ。 彼の作品を見た時に、一度もお会いしたことはないんですけど 『絵はこのように描けばいい』ということを 絵が語ってたんですよ。。。。。。。。。。。 それぐらい強烈な印象だった。

初めての個展の折、とある画廊のご主人がふぁ〜と入って来られて、私の作品を見てね、「あっ、これは香月さんの初期の作品ですか」って、おっしゃったらしいんですよ。その人が素人でなく画廊の関係者だったから、そこの画廊の奥さんは返答に困られたそうです。

わたしがすごくその画家に傾倒してたから、色なり、構図なり自然と影響を受けてたんでしょうね。「正子さん、すごいわよ。香月さんの絵は、号1000万なのよ」って、興奮してすぐ知らせてくださったのもなつかしい思い出です。

その後、「他にはどんな作品をご覧になったんですか」って いろんな人に聞かれたんだけど、実はその頃は、他にはあまり見てないんです。 ということは、東京での作品との出会いがかなり強烈な印象・インパクトだったと思うのです。だから、絵を制作するきっかけは、香月さんの絵との出会い以外にはないと思うんです。

そうですか。私、樋口さんと病院に寄せていただいた時、正子さんが座って本を読んだはって、きれいな可愛いお嬢さんっていう感じでした。樋口さんが「家政婦さんも付いてはるけど、孫にああやって付いてもらって幸せな人やわ」と言ったはったのを覚えてます。おとなしい優しいお嬢さんという印象でした。それからずっとお付き合いしてると、優しいだけじゃなく、たくましいとこもおありだけど。

正子氏)わたし、ほんとに1人で本読んだり、1人で旅したり、ほんとはその方が好きなのね。花外楼に生まれてなかったら、人と接する仕事はしてなかったと思います。

先程のお話で判ったんですけど、正子さんは教会へ行ってらっしゃるでしょ。こういう老舗の人にしたらモダンやなと思いますが、そうですか、お父さんがクリスチャンなんですか。

清子氏)うちの、主人の姉さんやらの家が熊本の士族やねんけど、クリスチャンでね。うちの主人も同志社に行ってたから、洗礼は受けてないけど、キリスト教の事よう知ってました。たまたま天王寺の家のそばに教会があったのでね。

日曜学校へ行ったらええわとそんな軽い気持ちで正子を父親が連れて行ったらしいわ。 日曜学校の先生をして、みんなを統率したり、司会したり、そういうことを知らず知らずのうちにちゃんと学んだみたいです。


せやから、何でもお上手だけど。

清子氏)どういうの、一つの信念を持ってるから、アメリカへ行った時も向こうの方に信用してもらえたようです。

教会に行かはったのも、お父様の影響ということですか。

正子氏)ミッション系の幼稚園でもなかったんだけど、親しみは覚えてました。父が戦時中から英人宣教師などから色々な影響を受けていたからかも知れませんが。

清子氏)私の子供時分は、お正月でも両親が忙しいからカルタ取りもして貰われへんの。 私らほんま、商売で忙しいからね。試験勉強してたら、「もう、はよ寝なさい」とかね、一向にしっかり勉強しなさいとか言わんと、早よ寝なさいばかり 娘たちに言ってました。 どっちか言うたら放任主義でね、一緒にどっかに行くということができなかったから、ま、ある程度は教会で良いことを学んだと思うわ。スピーチの仕方とかね。

お上手よね。色々お話しなさったり、ゾンタで会長をしておられたし、司会とかもね。

正子氏)ほんとに、そんなんは苦手なんですよ。

清子氏)そういうめぐり合わせになってるんでしょう。一時、しばらくは何もしなかったんですよ。たまたま すぐそこ、あの向側に教会ができたんですよ。私達も時々誘われて行きます。次ページへ



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