戦時中ここのお宝は。
清子氏)うちのは疎開してあったんです。
ここは戦災でやられませんでしたか。
清子氏)焼けませんでした。一発だけ不発弾が一晩床の間にのってました。隣七軒先まで焼けて来てたんです。でも防火壁が有って焼けなかった。
その日の晩は、やれやれ言うて寝て、明くる朝、掃除に起きたら3階の一番上の隅の床間に 不発弾がひとつ乗ってました。あれが燃えていたら、一晩寝てる間にず〜と燃え広がる。父が不発弾をつかんで川に捨てました。
父は戦争の犠牲者というか、体を壊して終戦のほんとに明くる日に死にました。お母さんと私と妹と女ばっかり残ってね、家の経済ということが解らない。
商売したくても不要不急の商売は止められてできなくて、どうしたら良いかと思って困ったんですけど。 工場でも軍需品を作ってたら良いねんけど、今すぐ要らんようなものを作ってる所は皆やめなさいと言うて強制的だった。
家だけは残って良かったんだけど父に死なれたんがショックでした。で、先代の母が24年から頑張って、始めは細々ながらお商売したんだけど、値段のつけようも解らへんの、女手でね、これくらい貰ろといたら良いかなと、税金でも色々あるでしょ。
みんなお父さんがやってくれてたから何にも解らない。銀行に助けていただきました。その上、父が死んだから相続税とか財産税とか全部かかってきたのね。
戦時中物資が無かったでしょう、そのころは大変だったでしょう。
清子氏)そう、ご飯出してもいかん。あの頃大阪に鬼警視総監がいてはりました。もし花外楼でお客さん呼んでる所へ警察が踏み込んできたら、お酒出してる、ご飯出してる言うたらね、お客さんは、お膳を持って東警察まで歩くっていうことになっていた。そんなん
かなんでしょ、だからうちは闇商売はしなかったんですよ。
その間、つる家さん、なだ萬さんは大阪市と府の公認の社交場やったから公然と料理を出せる、うちはできなかったから商売しなかった。そんなん、あんた、父親もいないのに、女子供ばっかりやのに、警察引っ張られていくなんて
かなん。
不思議なことにその後、32年にアメリカへ行った時に、鬼警視総監とご一緒しました。 日本が共産化することをアメリカは非常に恐れていた時代で、「日本は東洋の灯台であって共産の国を抑えてくれる最後の砦やから大事にせないかん」て、日本の青少年をアメリカへ呼んだんです。
住友さん、三井さん、渋沢さんとかの財閥の人と、加藤静江さん、戸叶さん、岡山の国会議員の星野先生、青年団とか皆アメリカへ招待された。
戦争の時にキリスト教というたら大変なんやけど、戦後、主人はシンガポールでイギリスの司令部付きになったん。そのとき宣教師のMiss
Hentyの引きでね、こういう会が有るから入りなさい、と。 MRA運動、Moral Re-Armament運動というのは、「戦争は武装して戦うけれども戦争が終わって世の中が荒廃した時には、まず道徳を標準にして、世の中をちゃんとせなあかん」という道徳再武装運動だったんです。
それでアメリカへ行った時にその鬼警視総監も一緒に行ったわけよ。びっくりしたわね。その人とよもや一緒の飛行機でアメリカへ行くと思わなかったのでね。
最期亡くなるまで、奥さん・ご子息まで皆とお付き合いしました。そのときはもう鬼じゃない。アメリカのホテルで、私ら夫婦はええ部屋、警視総監の偉い人も三井物産の支店長も悪い部屋で、うちの主人は「気の毒やから代わったげよか」って言うの。そんなことはアメリカではせんでよろしいと向こうの人に言われてね。
鬼警視総監って私ら勝手に言うてたけど、そのときにやっぱり立派な方とよくわかりました。逢うてみたらやっぱり、きっちりしたはったですわ。何事も規則は規則やから。
うちの父親は灯火管制で夜中ずっと回ってる時に、穴があった所にはまったんやね。で、胸打って肋膜みたいになってたんよね。戦争で日本負けたでしょ、もうがっくりして亡くなった。結局栄養失調だったんですよ。食べるもん無かったもん。
私らは工場へ行くでしょ。工場に行ったらね、大豆の入ったご飯と玉葱の上の固いネギだけをおかずにして食べた。
青いところを。
清子氏)青いところは噛んでも噛んでも噛まれへん。でもおかずがついてそれでも1食は食べられたから良かったけど。
親類が田舎にいないから、ばあやの所が心配してくれてね、山口県からお米もって来てくれたり。えらかったね、あの時は。<次ページへ>
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