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清子氏)母は日露戦争の明治38年に卒業しました。日露戦争に日本が勝って金蘭会が学校を作ろうということになり、金蘭会学園、福島の金蘭会の学校を作ったんです。知ってる方はビックリしてね。よくもまぁ女の人だけで学校を作ったねぇとおっしゃるけれど。 あの時は戦勝で日本中が沸きかえっていたんです。日清戦争が27年、日露戦争が38年です。上級生にはもっと偉い人がいたはるんですけど、母は一番若手で、卒業したてやけれどもお手伝いしたらしいと、だからよく金蘭会にも行ってました。 私が3年生の時に男の学校から女学校へ来られた佐藤先生が、その後に校長になられてて、丁度戦後ですが、私らの母のような年寄りを非常に大事にして、わたしら校長室なんか入ったことないのに、校長室でお弁当・お茶を出して、皆を大切にしてくださったので、母は金蘭会の会議に行くのが大変楽しみでした。 大手前は古い学校ですから。 清子氏)川崎さん広瀬さんなど、みんな大手前卒は立派な人の奥さんになったはって、川崎さんも立派なお家で、広瀬さんは兵庫県の婦人の会のリーダーで、今でこそ婦人の会もたくさんあるけれど。広瀬さんの名刺にはお茶、お花のなんとか流家元というのがずら〜とありました。一つやふたつと違うねんね。お習字からなにから何まで全部ありました。 清子氏)いえいえ、うちの母なんかは、ちょっと絵を描くくらい。 「ちょっと、あんさん」って言わはってね。頭もこんな風にきれいにしていらしたでしょ。ほんと素敵で、その頃は60歳台、そのくらいですか。 清子氏)昭和48年に86歳で亡くなりましたが、小柄でしゃんとしててお茶会行くのが楽しみな人やった。 清子氏)それでも、元気になって一回退院してね、『花外楼物語』を見に行ったり、お茶会も行かはった。気丈な人やったからね、最後まで。 清子氏)うちの母がえらいのはね、一日一所懸命働いたら、明くる日になって「昨日あれせえへんかったなぁ」って悔やむことがない人でしたわ。「えらいこっちゃったな」と言うたことのない人でした。
「今日はこんだけしてんから ええ」と、「一所懸命今日は生きたから、明くる日は悔やむことはない」と。そういう、決断力が素晴らしかったと思う。私やったら、ぐずぐずとどうしよう、ああしよう、こうしようと思うことをね、パッと決める。もう死ぬ日まで叱られてたけどね。 |